サヘート・マヘートとサンカーシャ

かってのコーサラ国だったシュラヴァスティにサヘート・マヘートはあります。
サヘートは祇園精舎、マヘートは王国の都だった舎衛城の跡です。
サヘート・マヘートと奇跡の場所サンカーシャをまとめました。
2013年1月訪問

写真はサヘート(祇園精舎)の香堂跡



サヘート(祇園精舎)

日本でも有名なサヘート(祇園精舎)は、スダッタ長者が祇陀王子(ジェータ王子)の園林を買い取り、寄進したもので、かってのコーサラ国の都の郊外にあたります。

精舎に適した場所を探していたスダッタ長者がこの土地を求めた時、祇陀王子は戯れに「金貨を敷き詰めた場所を与える」と言います。しかし、スダッタ長者が家財を投げ出してまで金貨を敷き始めた姿を見て、祇陀王子は心をうたれ、自ら園林を寄進します。王子が園林を寄進したことから、スダッタ長者はお釈迦様が生活する香堂と沐浴のための池を寄進したと言われています。

サヘート(祇園精舎)の跡は広い遺跡公園になっています。
入ってすぐ左手に12世紀の僧院跡がありました。
インドで仏教が滅ぶ寸前の僧院です。




遺跡公園内は多くの建物が残りますが、まずは見どころを廻ることになりました。
これはアーナンダの菩提樹と呼ばれる菩提樹



この菩提樹は地元の信者たちが不在がちのお釈迦様の代わりに祈る対象が欲しいと懇願したため、阿難・アーナンダがお釈迦様の許可を得て、ブッダガヤの菩提樹から移植したものです。神通第一と言われた目連が神通力でブッタガヤの菩提樹の一部を飛来させたという伝承もあるのだとか。この菩提樹、仏教徒の間ではブッダガヤのマハーボーディー寺院の菩提樹に次いで大切にされている木なんだそうです。


遺跡公園の北側には大切な場所が数多くあります。
ここは香堂跡。香堂というのはお釈迦様が生活をなさった建物を言います。



お釈迦様はこの場所、祇園精舎を好まれたらしく、悟りを開いてから入滅までの45年間のうち、19回から25回の雨安居(雨季の住宅)をここで過ごしたと言われています。コーサラ国は当時マガダ国と並ぶ二大国で、お釈迦様の故郷カピラヴァストゥも支配下に置いていていました。お釈迦様は故郷に近い、この地を好まれたのかもしれません。

現在残っているのは4世紀ころの建物の跡。5世紀に法顕が祇園精舎を訪れた時、ここには煉瓦造りの2階建ての建物が残っていて、住職は「かって、香堂は7階建ての木造の建物だった。しかし、火のついた木をネズミが香堂内に持ち込んだため火事となり、焼失してしまった」と話したということです。その後、7世紀に訪れた玄奘は、「ほぼ廃墟となっていた」と記しています。


香堂から下を見下ろしてみました。
向かいの建物には説法台と呼ばれる四角い壇が残っています。
お釈迦様は香堂で生活して、向かいの建物で説法をしたのだとか・・。




向かいの建物を撮ってみました。
真ん中左寄りに四角い壇のようなものがあるのですが分かるでしょうか。
四角い壇が説法台。手前にある丸いのはストゥーパの跡です。
もっとも、この建物も4世紀から6世紀にかけてのもの。




公園の一番北まで来ました。
香堂付近を振り返って撮った景色(左下)と、一番北にある建造物(右下)。
この一番北にある建造物(僧院)の場所で、阿弥陀経が説かれたとも言われているそうです。

   


一番北側から左に折れると日本の関西大学の発掘現場があります。
ここも僧院のようですが、奥に池があるのだとか。スダッタ長者が寄進した池かもしれません。




祇園精舎に着いたのは夕方だったので、残念ながら観光は駆け足です。
非常に整備された公園で、ストゥーパの跡らしきものや建物の跡が残っているのですが・・・。

   


祇園精舎の観光が駆け足になってしまったので、翌朝、面白いものを見せてもらいました。

祇園精舎の「鐘」です。

元々、祇園精舎には鐘はありませんでした。

お釈迦様がご存命のころの精舎というのは、とても簡素なものだったようです。

一番最初の精舎と言われる竹林精舎には建物はなかったのではないかと言われていますし、祇園精舎は竹林精舎に次ぐ、2番目の精舎で、最初の建物が建てられた精舎と言われていますが、今、私たちが想像するような寺院・僧坊とは全く姿が違うものだったわけです。

とはいえ、日本人なら「祇園精舎の鐘の音」です。
平家物語の作者が勝手に創作したものとはいえ、鐘がないと祇園精舎だと納得できない日本人が多いらしく、日本人が鐘を作って、祇園精舎のそばに寄進しています。

普段は中に入れて鐘を叩かせてくれるらしいのですが、正月三が日でお休みなのか鍵がかかってて残念ながら入れませんでした。

どんな音がするんでしょうね。



マヘート(舎衛城)

夕暮れが迫っていたことから、サヘート(祇園精舎)から大慌てでマヘート(舎衛城)へ。
当時の二大国コーサラ国の都なので、城壁とか残っているのかと思ったら2つのストゥーパを見学です。
このストゥーパ、向い合って建っていて、左下がスダッタ長者屋敷跡、右下がアングリマーラのストゥーパ。

   

スダッタ長者というのは、祇園精舎を寄進した長者です。彼は商人としてマガダ国を訪れた時にお釈迦様に会い、その説法を聞いて深く帰依することとなりました。祇園精舎はスダッタ長者がお釈迦様にコーサラ国に来てもらうために作ったものでもあります。

スダッタ長者は「孤独なるものに食を給する者」とも呼ばれていて、貧しい人々に施しをしていた人物だったようです。

彼の住居跡に作られたストゥーパは、大勢の人達で賑わっていました(右)。

もう一つのストゥーパであるアングリマーラのストゥーパは恐ろしい盗賊のストゥーパです。

アングリマーラはバラモンにより1000人(100人という説も)を殺すという呪いをかけられます。自分が殺した人の指をつないで首輪にしていたというのですから恐ろしい話です。

兵士達でも手に負えないアングリマーラにお釈迦様は一人で会いに行きます。
アングリマーラはお釈迦様を1000人目の犠牲者にしようとしますが、お釈迦様の神通力で危害を与えることができません。
かえって、お釈迦様に諭され、バラモンの呪いから解放されます。

アングリマーラは出家し、最後は阿羅漢になったと伝えられます。


こちらはアングリマーラのストゥーパ。夕陽で赤く染まっています。




ここでこの日の観光はタイムアップ。遠くに新しい仏塔が見えます。





翌朝向かったのは、お釈迦様が奇跡を起こしたというストゥーパ。
オーラジャハール仏塔といいます。



ここはお釈迦様が異教徒の挑戦を受けて奇跡を行った場所。お釈迦様が生きていた時代は多くの宗教家が説を競い合っていて、決して穏やかな時代ではありませんでした。舎利弗と並ぶ二大弟子と言われた目連(モッガラーナ)などは王舎城の路上で異教徒たちの襲撃を受け、石などで殴り殺されたと言われるほどです。

異教徒の挑戦を受けたお釈迦様は、ここで植えたばかりのマンゴーの木を大木に成長させ、次から次に自身の分身を産み出し、その分身が火や水を噴出させるという奇跡を行います。分身はついには千体に分かれます。千体仏というのは良く耳にしますが、この奇跡に由来するんですね。異教徒はお釈迦様の起こした奇跡から負けを認めますが、お釈迦様はそのまま、天界に生まれ変わった母マーヤー夫人に説法を行うため、天界に昇って行きます。お釈迦様は3か月に渡り、天界で説法を行ったと言われています。


お釈迦様が奇跡を起こした場所では実に美しい朝日を見ることができました。
朝日を映しているのはラムテ川。



ここからは、今度はお釈迦様が天界から降りて来たという場所・サンカーシャに大移動です。
サンカーシャ近くのホテルに着いたのは夜の7時。車で約12時間かかりました。




サンカーシャ

マヘートから何キロ離れているのか。
ここがお釈迦様が天界から降りて来たと伝えられる場所です。



天界に昇って行ったというのも不思議な話ですし、天界から降りて来たというのも不思議な話です。しかも、昇った場所と降りて来た場所がこんなに離れているというのも、とても不思議。

そもそも、日本では、お釈迦様が起こした奇跡って、あんまり語られませんよね。

日本だと奇跡とか神通力とか言うと、かえって胡散臭くなってしまう・・というのが理由なのでしょうか。
しかし、ここにはアショカ王の石柱も残っています。アショカ王、お墨付きの仏跡といえます。

お釈迦様は天界から梯子で降りて来たと言います。
お釈迦様が降りるに従って、梯子は上から消えていきましたが、最後の7段だけは消えずに残ったため、そこに社を建て、更に、そこにアショカ王がアショカ石柱を置いたのだそうです。

ただ、一つ心配なのは5世紀にサンカーシャを訪れた法顕はアショカ石柱の上に彫られた動物を「獅子」と書いているということ。
ここのは、どう見ても、「象」です。
いくらなんでも象を獅子とは見間違えないだろうと思うと、ここまで移動してきた苦労はなんだったのかと不安になりますが、ここが古くからサンカーシャとされていることは間違いないのだとか。
もっとも、ここはほとんど発掘・調査が進んでいないのだそうです・・・。


アショカ王の石柱のすぐそばに小さな社があり、中に綺麗なレリーフがありました。



真ん中がお釈迦様。右で天蓋を掲げているのが帝釈天。帝釈天は銅の梯子で降りて来たと言います。お釈迦様の左は梵天。梵天は銀の梯子で降りて来たそうです。だったら、お釈迦様は金の梯子かと思いきや、お釈迦様の梯子は七つの宝石で飾られた七宝の梯子だったのだそうです。
このレリーフ、よく見ると、後ろに3つの梯子が彫られています。

日本では余り知られていないエピソードながら、サンカーシャの奇跡は古くから好んで語られてきたようです。ガンダーラと並ぶ仏像工房のあったマトゥラーの博物館では、サンカーシャの奇跡がお釈迦様の生涯を語るレリーフに普通に彫られていました。例えば下のレリーフ。上段の右から摩耶夫人による出産、成道と続いて真ん中に3つの梯子が彫られています。サンカーシャの奇跡です。その左に初転法輪、入滅と続いていて、この奇跡が成道や入滅と同じ位大事に考えられていたことが分かります。



現在、八大仏跡は生誕(ルンビニ)、成道(ブッタ・ガヤー)、初転法輪(サールナート)、入滅(クシナガラ)の四大仏跡に、精舎があったラジギール(王舎城)、ヴァイシャーリー(広巌城)、サヘート・マヘート(祇園精舎・舎衛城)、そして、ここサンカーシャを加えたものを言うのが一般です。
布教・伝道の地としての3か所の他に、1か所奇跡の場所を入れたというのは、やはり、古来から、それだけお釈迦様の奇跡というのも重視されてきたからなのでしょう。

お釈迦様が降りて来たという小高い丘に登ってみました。
登ってみると、煉瓦が積まれたストゥーパだということが、よく分かります。

頂上には2つのヒンズー教の祠が建っていました。ここにはお釈迦様の養母であるマハー・パジャーパティの生まれ変わりという女神が祀られていて、毒蛇から人々を守ってくれるのだそうです。

頂上でうろうろしていたら、次の御一行様が到着です。ミャンマーから来たという大集団でした。ミャンマーでは、奇跡の地、サンカーシャも有名なんでしょうか。



なんでお釈迦様はマヘートから、とってもとっても離れたサンカーシャに降りて来たんでしょう。
もう少し、近い所に降りてくれば良かったのに・・・と正直、思いました。

祇園精舎は、もっとゆっくりしたかったなあ。


生誕の地(ルンビニ)       故郷(カピラヴァストゥ)
成道の地(ブッダ・ガヤー)    初転法輪(サールナート)
伝道の地・王舎城(ラジギール)      大学(ナーランダ)
釈尊最後の旅(ヴァイシャーリー〜クシナガラ)

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参考文献

「仏陀誕生の地 ルンビニは招く」(パサンダ・ビダリ著)
「ブッダの生涯」(新潮社とんぼの本 小林正典・三友量順著)
「釈迦と十大弟子」(新潮社とんぼの本 西村公朝著)
「ブッダの生涯」(創元社「知の再発見」双書 ジャン・ボワスリエ著)
「原始仏教」(NHKブックス 中村元著)
「原始仏典」(ちくま学芸文庫 中村元著)
「『ブッダの肉声』に生き方を問う」(小学館101新書 中野東禅著)


基本的には添乗員さんの説明を元にまとめています。