サマルカンド

中央アジア最古の都市サマルカンド
シルクロードの十字路。文明の交差路。青のサマルカンド。
ティムールの築いた都は美しいだけでなく見どころ満載です。
2006年8月訪問

写真はレギスタン広場


オアシス都市であるサマルカンドは古代ソグド人の都であり、かってはマラカンダと呼ばれていました。前4世紀、アレキサンダー大王はその繁栄に驚いたと言われます。
13世紀にチンギス・ハーンによって一度は徹底的に破壊し尽されてしまいますが、14世紀にティムールが帝国の首都としてからは、帝国各地の職人達によって復興し、孫のウルグベクの時代に最盛期を迎えます。16世紀にブハラ・ハーン国に征服され衰退するものの、ティムール帝国の栄華を偲ばせるものが今でも数多く残っています。


レギスタン広場

広場手前の噴水。広場ヘは、ここから少し下がっていく形



レギスタン広場は3つのメドレッセ(神学校)が建ち並ぶサマルカンドの中心地
左からウルベルク・メドレッセ、中央がティラカリ・メドレッセ、右がシェルドル・メドレッセ。


「レギスタン」というのは「砂の広場」という意味で、ソ連時代には砂に2mも埋もれてたのだそうです。ティムールの時代には市場だったのを、ウルグベクがまず左のウルベルク・メドレッセを建て、それから200年に渡って次々にメドレッセ(神学校)が建てられました。


ウルベルク・メドレッセ



ウルグベクがレギスタン広場に最初に建てたメドレッセ。1420年完成。品のある落ち着いたメドレッセ(神学校)で、ウルグベクが天文学者であることから、星の形が模様になっています。

ティムールの孫のウルグベクはティムール帝国4代目君主ですが、学者としても超一流でした。
彼は自ら歴史書の編纂にかかわっただけでなく、数学・天文学に優れ、天文学者としては一年の長さをほぼ正確に測定したということです。

ウルグベクはサマルカンドを文化の都として発展させます。

ウルグベクは自らここで教鞭もとったと言うことで、中に入るとウルグベクの書斎も残っているし、天文学者としての彼を描いた像も置いてあります。

このメドレッセには100人以上の学生が学んでいたとのことで、学生たちの寄宿舎だった小部屋は現在はお土産屋さんになっていました。

なお、ここのミナレットは登ることができて(2007年)頂上まで行くと体が半分外に出ます。見てるだけでもコワいけど見晴らしはいいらしい(でも、登っている間に管理人がいなくなることもあって、そうすると閉じ込められんだそうです)。


シェルドル・メドレッセ



ウルグベク・メドレッセに向かい合って建つのがシェルドル・メドレッセ。1636年完成。このメドレッセは、おそらく、レギスタン広場で一番有名なメドレッセでしょう。

なぜ有名かといえば、正面に描かれた人の顔を載せたライオン。「シェルドル」というのは「ライオン」の意味と言うことで、私には虎にしか見えませんが、地元の人が「ライオン」だという動物が背中に日輪を背負い、しかも、その日輪の中にはやたら東洋的な顔が描かれています。そして、このトラというかライオンは白い鹿を追いかけています・・・。
偶像崇拝を否定するイスラムでは、およそ考えられないデザインです。サマルカンドの紋章であるライオンを描いたのだとか、ゾロアスター教の影響という説もありますが・・・。



このメドレッセ、正面玄関の形と規模は向かい合うウルグベク・メドレッセと全く同じということですが、なぜ、こんなに奇抜さを追求したのか・・・・。青いドームも綺麗だし、中庭なんかも素敵なんですが・・・・このメドレッセが余りに奇抜すぎて評判悪かったんで、ティラカリ・メドレッセが建てられたという説もあるそうです。
ちなみに、このトラというかライオンはウズベキスタンのお札にも描かれています(200スム札)。



中庭に入ると、ここもお土産屋さんになっていますが(と言うか、ウズベキスタンのメドレッセって、ほとんどがお土産屋さんになってるけど)、民族楽器のお店があって演奏をしてもらいました。シルクロードの楽器って、どこか懐かしい音色がしますね。


ティラカリ・メドレッセ



真ん中にあるティラカリ・メドレッセは1660年完成。このメドレッセはモスクも兼ねています。綺麗な青いドームの下が礼拝所です。ティムールが建てたビビ・ハニム・モスクが壊れてしまってから、サマルカンドの人たちはここで礼拝を行ったということでした。

青が美しい


3つのメドレッセの中で一番新しくて、ともかく豪華にしようという意図からか、青いドームも美しいし、壁面のタイルもご覧のような美しさ。そもそも、「ティラカリ」というのは「金箔された」という意味。ここでは金が3キロ使われているそうです。中に入ると更なる美しさに圧倒されます。

天井がまぶしい。


青と金が何とも言えない美しさを醸し出しています。青のサマルカンドと言われるように、サマルカンドの建築物は青が印象的なものが多い。美しい青タイルは中国の陶磁器とペルシャの顔料の出会いによるものなのだとか。さすが文明の交差路。美しさにも奥が深いわけですね。

ともかく美しい空間
   

信じられないことですが、ここは20世紀初頭にソ連によって徹底的に破壊されています。
当時の写真が展示されていましたが、よくぞ、ここまで修復したものだと感動。


国立文化歴史博物館

レギスタン広場のすぐ近くに国立文化歴史博物館があります。
ウズベキスタン各地の出土品が展示されていました。
たぶんレプリカだと思うのですが、印象的な壁画が多かったです。

 6世紀の壁画?
 白い象に乗った貴婦人




グル・エミール廟



グル・エミールとは「支配者の墓」という意味。もともとはティムールが戦死した孫のために建設を始めましたが、ティムールが急死したため、ティムール自身も葬られることとなり、支配者一族の霊廟となりました。昔は4本のミナレットがあったということですが、今は2本のみが残っています。

ドームの青が鮮やかです。もともとは普通のドームだったのを、孫のウルグベクが63本の線を入れたのだそうです。63というのはムハンマドが死んだ年ということで聖なる意味があるのだとか。
そのウルグベクも、ここでティムールと一緒に眠っています。

ドームは美しいけれど、正直、ティムールのような大権力者のお墓としては少し大人しいかも、と思ったのですが・・・。中に入ると、余りの凄さにびっくり。

   

実は、中にはいっても最初は大したことはありません。奥に進むと入口があり、そこから先は撮影するのにカメラ代が必要。最初は「もったいない」と思って払わないで中に入ったのです。しかし!
一歩、足を踏み入れると、う、うわあ、き、きれいだ。内部は金で装飾が施されていて・・・・。ダッシュして戻ってカメラ代払いました。

う〜〜ん。カメラ、ハレーション起してるかな、本当は、もっともっとずっと綺麗なんですよ・・・。金が4キロ使われているのだそうです。1996年に修復が終わったということですが、凄い気合入れて修復してますね。さすが国家的英雄の墓。綺麗なだけでなく、荘厳というか・・・ともかく素晴らしい。

美しい天井
   

荘厳かつ豪華
   

左上の写真で床にいくつもの棺が置かれているのが分かると思いますが、ここにはティムールを中心にティムールの子供、ウルグベクを始めとする孫、ウルグベクの子、ティムールの先生・・・と全部で8人の棺が置かれています。ティムールの棺は黒翡翠だとか。
もっとも、ここの棺に遺体が入っているわけではなく、これらの棺は本来の棺の位置を示すもので、実際のお墓はこの地下にあります。ひとつ横に離れたところに置かれているのはティムールの先生のお墓で、そこには馬の毛が吊るされていました。なんでも聖者の印なんだそうです。

地下の本当のお墓も見ることができます。

右の写真がティムールの墓。

ソ連の学術調査の結果、ティムールが足を骨折していたことが確認されただけでなく、孫のウルグベクが首を斬られていたことも分かったとか。

ウルグベクという人は凄い学者でしたが、妬まれて実の子に暗殺されてるんだそうです。

実はティムールの棺には興味深い伝説が。

17世紀に、ペルシャの王が、余りに立派な石なので持ち帰ったところ、石が2つに割れ(近くで見ると本当に割れているのが分かります)、王子が病気になってしまいます。占ったところ、戻さないと王子が死ぬと言われ、慌てて戻したのだとか。
おかげで王子の病気は治りましたが、以後、ティムールの棺に触ると不吉なことが起こると言われるようになります。

そして、ソ連がティムールの墓の学術調査をした翌年にドイツがソ連を侵攻・・・・と、現地ガイドさんが実に嬉しそうに語っておりました。


実はグル・エミール廟は私たちの泊まったホテルのすぐ近くでした。
廟の入口付近からホテル方向を撮った写真。
茶色いドームはルハバッド廟。14世紀の神秘主義者の霊廟です。




ビビ・ハニム・モスク



ビビ・ハニム・モスクはティムールが作った中央アジア最大のモスクです。1399年から作り始め、1404年に異例の速さで完成したものの、ティムールが満足せず作り直しを命令し、1405年にティムールが没したため、そのままになってしまった・・・という未完成のモスクでもあります。
余りに巨大で、しかも作るのを急がせすぎたことから、完成直後から崩壊が始まっていたと言われています。余りに大きいため、かなり離れないと全景は撮れません。モスクの玄関は高さが42m。

玄関を抜けると正面にモスク本殿(左)が、左右に小さな寺院(右)があります。



かっては左右の小寺院を取り囲む形で回廊があったようですが、今は全く残っていません。
本殿正面にはコーランを置いたという巨大な石の台が残っています。

しかし、本殿は痛みが激しい。今も修復中のようではありますが・・。



本殿内部に入ると壁には大きな亀裂が入り、すっかり荒廃してしまっていて往時を偲ぶには、ちょっと無理があります。なんでも、このモスクは当時の他の建造物とは違う方法で作られているとのこと。インドの職人が関与していたのではないかとのことでした。かってはタージ・マハルのように大理石に宝石をはめ込んでいたそうです。モスクの名前の由来になっているビビ・ハニムというのはティムールの第一夫人で、モンゴルのチンギス・ハーンの家系に連なる姫で、とってもお金持ちだった、だから宝石をたくさん使えた・・・とのことです。

このモスクの完成のため建築家が姫にキスを迫り、姫が仕方なく許すとそのキスの跡が痣になってしまったという伝説があります。ティムールが怒り、建築家は死罪になり、姫はベールで顔を隠さないとならなくなったとも言いますが、現地ガイドさんによると、怒ったティムールが「ここをスイカ畑にしてしまえ」と言ったとのことで、何か人間らしくて、現地ガイドさんの話の方が好きだなあ。

 本殿のドーム
 小寺院のドーム



バザール

ビビ・ハニム・モスクのすぐ隣はバザール。
ドライフルーツやパン、多くの人々で賑わっています。

   



シャーヒ・ジンダ廟群

「シャーヒ・ジンダ」とは「生ける王」という意味。ここには9世紀から20世紀にかけて多くの霊廟が建てられています。
この霊廟群にはムハンマドの従兄であるクサム・イブン・アッバース廟を始めとして、ティムールの妹や妃、部下など数多くの霊廟が建ち並び、それぞれの廟が青タイルの美しさを競っているようで見事です。「青のサマルカンド」を堪能できる場所と言っても良いかもしれません。

ウルグベクが作ったという霊廟群の入口の門をくぐると、「天国への階段」と言われる階段があり、この階段で行きと帰りの数が同じならば天国に行けると言われています。行きと帰りで数をきちんと数えましょう。普通は行きも帰りも数は同じになるはずなので。

   


階段の途中から綺麗な2つの青いドームが見えました。ティムールの先生か乳母の霊廟と言われているものだそうです(左下)。
そして、階段を登りきると、いきなり両側にタイルの美しい廟群が現れます。あんまり広くない道を挟んで、美しい廟が建ち並ぶのは見事。修復中のものがあるのが残念だけど(右下)。

   

階段を登ってすぐのところにある廟は、ティムールの部下や妹・姪の廟らしい。ティムールの妹の廟や姪の廟は特に美しいと言われているらしいけれど、正直、廟が多すぎて、後で写真を整理してても、どこがどこだか分からなくなってしまいました(汗)。みんな、それぞれに綺麗です。ただ、メモにはティムールの妹の廟について「金が貼ってある。透けているように見える」とありました。

現地ガイドさんに言わせると、「ガイドでも地図がないと、どこがどこだか分からなくなる」とか・・・、半分、冗談なのでしょうけれど。

   


更に進むと、ちょっと広い場所に出ました。
ここにも、こんな風に廟が並んでいます。
左から3つ目は未完成の廟で、ティムールの部下の将軍のもの。




タイルのモザイクが素晴らしい。様々な青が見事です。

   


この先がクサム・イブン・アッバース廟。





クサム・イブン・アッバース廟の入口は「天国への門」と呼ばれています。この廟に3回詣でるとメッカに詣でたと同じことになるとされていたのが名前の由来のようです。

クサム・イブン・アッバーンはイスラム教の開祖であるムハンマドの従兄にあたる人物。

アラブ・イスラム教がこの地に最初に入ってきたとき、クサム・イブン・アッバースがイスラム教の布教のためにこの地を訪れました。
しかし、当時はゾロアスター教が盛んだったこともあって、クサムは襲われて首を斬られてしまいます。

ところが、彼は自分の首を抱えて、この地の井戸に入り、そこで生き続けているのだとか。
そして、イスラムが危機に陥った時、救いのため、ここから現れるのだそうです。

霊廟群の名前となっている「生ける王」「シャーヒ・ジンダ」は、この伝説に基づくもの。

この門を入るとすぐのところに、古代のゾロアスター教の寺院の跡が残っていました。
そこを抜けて奥に入ったところに廟はあります。


クサム・イブン・アッバース廟はチンギス・ハーンにも破壊されなかったということで、サマルカンドで最も古い建造物。奥に透かし彫りの窓があります。この透かし窓の向こうにクサム・イブン・アッバースが入っていったという井戸があるのだそうです。不思議な雰囲気の場所でした。

   


クサム・イブン・アッバース廟の先は突き当たりで、3つの廟が並んでいました。
ティムールの先生や妻の霊廟だそうです。微妙に異なる青が美しい。
現地ガイドさんによると、左右がティムールの妻、中央が先生。

   

戻って来たら地元の人たちが天国の扉に向かってお祈りを捧げていました(左下)。おじいちゃんを中央に一族なのでしょうか。
ウズベキスタンの人たちは、お年寄りをとても尊敬して、大切にしています。
見学を終えての帰り道。反対側から霊廟群を見たところ(右下)。こっちから見ても綺麗です。

   



ウルグベク天文台

ティムール帝国4代目の皇帝ウルグベクが天文学者として有名だったことは、既に何回か書きましたが、彼の造った天文台の跡地がサマルカンドの郊外に残っています。

これは20世紀まで埋もれていたのをロシア人が発見・発掘したものだそうで、天文台の基礎と六分儀の地下部分が残っています。

六分儀というのは、よく分からないのですが、当時はこれで天体を観測したとのこと。
ウルグベクが計算した1年は今の計算と1分以下の誤差ということで、彼は他にも1000以上の星の観測記録も残していて、これは当時、世界で最も正確な天文記録だったのだとか。

隣接する博物館では、彼の偉業が説明されていて、彼は世界10大近代科学者だかにコペルニクスとともに選ばれているとのことでした。

うわあ、そんなに凄い人なんだ。

現地ガイドさんはウルグベクのことを皇帝としてはちょっと・・と言うのですけど、コペルニクス並の天文学者だったとしたら、皇帝としての戦闘能力まで求めるのは酷なんじゃないでしょうか。

かってのイスラムが西洋文化を凌駕していたということは、よく聞きますが、西洋人の学者の名前は知っていても、イスラムの学者の名前については無知で恥ずかしい。


ウズベキスタンでは色々な場所で学者の像が飾られていて、学者を尊敬していることがうかがえます。



アフラシャブの丘

現在の市街からバスで約15分くらいのところにアフラシャブの丘はあります。
ここはチンギス・ハーンによって徹底的に破壊された旧サマルカンドの跡地。
破壊が余りに徹底的だったため、人々はこの地での再建を諦め、隣接する現在の場所に街を再建しました。



現在のアフラシャブの丘は、ご覧のとおりの状態で、昔の石畳の道が残っていたり、宮殿跡かと思われる小高い丘や、堀と思われる谷のような場所があったりしますが、正直、考古学者でない私にはよくわかりません。

しかし、ここでは紀元前4世紀のアレクサンダー大王の時代から13世紀にチンギス・ハーンに破壊されるまでの11の層が発掘・確認されています。

かって、ここは「マラカンダ」と呼ばれ、6〜8世紀ころはソグド人達のシルクロード交易で繁栄しました。7世紀にこの地を訪れた玄奘はゾロアスター教が信仰されていると書き記しています。
その後、トルコ系・モンゴル系・アラブ系など様々な民族が入って来ます。まさに文明の交差路。隣接する博物館では、こういった民族の交流を示すものがたくさん展示されています。

この博物館で最も有名なのが8世紀の壁画。かって王宮を飾っていたと考えられています。

下は宮殿に向かう使節団の壁画の一部。ソグド人を描いたものと言われている部分。



白い象に乗った王女を先頭とする使節団の一部です。

左下、上の写真の駱駝に乗ったソグト人の使節。
右下は中国から来た姫が舟遊びをしているところ。
画面の下には母鳥が子供達に餌をあげているシーンが描かれています。

   



青のサマルカンド
憧れていた場所は期待を裏切りませんでした。
見どころ満載。もっとゆっくりしたかった。


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参考文献

世界遺産を旅する10(近畿日本ツーリスト)
イスラムの誘惑(新潮社)
21世紀世界遺産の旅(小学館)
週刊シルクロードbP1(朝日新聞社)

基本的には現地ガイドさんの説明を元にまとめています。