クチャ
かって亀茲国と呼ばれていたクチャ
天山南路の要衝は大訳経僧・鳩摩羅什の故郷であり
玄奘がインドに向う途中に立ち寄った場所でもあります。
2015年5月訪問

写真はキジル千仏洞前に立つ鳩摩羅什像


クチャは天山山脈の南麓に位置するオアシス都市で、シルクロードの天山南路(天山山脈の南側を通るルート)の要衝です。紀元前2世紀、前漢のころから亀茲(きじ)国が盛んとなり、以後、匈奴と中原との間で翻弄されながら、後漢時代には西域都護府が、唐代には安西都護府が置かれ、10世紀ころまで繁栄を続けました。

4世紀中頃、亀茲国に生まれた鳩摩羅什(くまらじゅう・クマラジーヴァ)は大乗の高僧で、5世紀初頭、長安にて阿弥陀経、般若波羅密経、妙法蓮華経など多くの大乗仏教の経典を翻訳します。
鳩摩羅什なくして大乗仏教が広まることはなかったと言われ、また、彼の翻訳は芸術的とまで評されます。しかし、彼は大訳経僧であると同時に女犯を強いられた悲劇の破戒僧でもありました。

鳩摩羅什はインド名門貴族を父に、亀茲国王の妹を母として亀茲国で生まれます。

亀茲国は3世紀ころから上座部仏教(小乗仏教)が盛んで、幼いころ母とともに出家した鳩摩羅什も当初は上座部仏教を学びます。
しかし、その後、大乗仏教と出会い、大乗に転向。西域でその名を知られた大乗の高僧となります。

当時は五胡十六国時代。亀茲国は384年に後涼の呂光に討たれ、鳩摩羅什は捕虜となってしまいます。
この時、亀茲国の王女を犯さないと王女を殺すと言われた鳩摩羅什はやむなく王女と関係を持ち、破戒僧となってしまいます。
そして、涼州(現甘粛省)に連れて行かれ、その地で漢語を学ぶこととなりました。

401年に後涼が後秦に滅ぼされると、鳩摩羅什は今度はその学識から長安に招かれ、多くの大乗仏教の経典を漢訳することとなります。この時、再び女犯を強いられ還俗しました。


父がインド人ですからサンスクリット語は得意だったでしょうし、捕虜時代に漢語を学んだことが翻訳に役立ったのでしょうけれど、破戒僧とならざるを得なかった境遇が経典の翻訳に深みを与え、芸術的とまで評されるのでしょう。

7世紀、経典を求めてインドに旅立った玄奘は鳩摩羅什訳の般若波羅密経を肌身離さず持っていたと言います。亀茲に立ち寄った玄奘も鳩摩羅什に思いを馳せていたに違いありません。

中国人は歴史的観光地に趣味の悪い像を立てることが多いのですが、この鳩摩羅什像は珍しく美しかった。



キジル千仏洞

鳩摩羅什の像のあったキジル千仏洞を紹介します。


キジル千仏洞は現在のクチャの街から西に約70キロのところにあります。石窟の近くにはムザルト川が流れ、石窟の前には緑が広がります。石窟は40mの高さのチェルタゴ山の断崖に3世紀末ころから9世紀ころにかけて作られました。中国で最も古く、最も西に位置する石窟寺院です。現在までに237窟が発見されており、そのうち約70の石窟に壁画が残っています。


見学できる石窟は谷西区、谷東区、後山区、谷内区と分かれていて、私たちのツアーは鳩摩羅什像の近くの谷西区を見学しました。

ツアーに入っていたのは谷西区の入場料で見られる8、17、27、32、34窟と別途特別料金が必要な38窟(音楽堂)。

折角の機会なので、更に200元を払って69窟も見学しました。本当は77窟が見たくて、事前に相談したところ、たぶん見学できると言われていたのですが、行って見たら77窟の鍵を持っている研究所の偉い人がウルムチに鍵を持って行ってしまったというので、急遽69窟に変更したんです。さすが中国というか、実際に行って見ないと、どこが見学できるか分かりません。

左は入場券としてもらった絵葉書。見学できた石窟の壁画ではないのですが、キジル千仏洞の特徴がよく分かるかと思います。

何より、中国っぽくない。人物は巻き毛だし。洋風のラッパ持ってるし。
キジル千仏洞は中国で最も古い石窟ですが、ギリシャ・ローマ・ペルシャ・インドの影響が強いことで知られています。


現地ガイドさんによると、中国の支配を受けてたけれど、中国からは遠かったので、文化的にはギリシャ・ローマ・ペルシャ・インドの影響の方が強かったんですって。


鳩摩羅什の像の前を通ると、いよいよキジル千仏洞への階段です。


石窟はもろい岩肌を削って作られ、かっては木の階段、回廊があったそうです。でも、地震などで壊れてしまって、元々あった石窟の前室も崩れてしまっています。
しかも、イスラム教が入って来てからは宗教戦争で破壊され、近代になってはドイツなどの調査隊が壁画を持ち帰り、更には文革・・・・と破壊が繰り返されました。このため石窟に元々あった塑像はほとんど残っていません。しかし、意外と壁画は残っていて、実に見ごたえがありました。

ただ、残念ながら中国の石窟寺院のお決まりで写真撮影は厳禁。上の写真を撮ったあたりでカメラも預けなくてはなりません。でも、ウルムチの新疆ウイグル自治区博物館で38窟を原寸大で丸ごと再現していて、そこは写真撮影が可能だったので(フラッシュは禁止ですが)、その写真と各地で買い漁った絵葉書(物によっては印刷がかなり悪いですが)やポスターなどでまとめてみます。


38窟

「音楽洞」と呼ばれる38窟。4世紀に作られた石窟です。
実際のツアーでも、ここから見学が始まりました。
写真はウルムチの新疆ウイグル自治区博物館のレプリカ
本当の石窟の方が光が入って明るいのですが、雰囲気は伝わるかと思います。
写真は入口から天井を見たところ。


敦煌などはそれぞれの石窟の洞でかなり大きさが違い、広い部屋から狭い部屋まで色々でしたがキジル千仏洞で私が見学した洞は、いずれも狭い部屋でした。狭いと言っても十数人は余裕で入れるんですが・・・。

入口から入ると逆Uの字の形の天井。そして正面の壁の下部に左右2つの出入口があり、そこを入ると奥の部屋に通じ、左の入口から右の入口にぐるりと出る、という形。奥の部屋には涅槃仏を置いていたようです。こういった石窟の様式を中心柱窟と言います。正面の壁というか柱を塔に見立て、かっては正面の壁に木の棒を入れて須弥山を再現していました。上の写真でも穴が幾つも開いているのがわかると思います。元々は正面に塑像の仏像が置かれていました。

本物の38窟は中に入って見学できますが、博物館のレプリカは入口から見るだけ。そのため、写真も撮りずらいのですが、まずはレプリカの写真で説明します。

天井頂上部を見上げると「天相図」が描かれています。
右の写真、中央部、上から帯状に、日天、風神、立仏、ガルーダ、風神、立仏、月天が描かれています。これを「天相図」といいます。

一番上の日天と一番下の月天は円形の周囲を四羽の鳥が飛んでいます。

その下は風神。日本の宗達の風神みたいに布の袋を持っていて、そこから風を出してるのかな、と思うのですが、更に良く見ると、なんと胸がある。女の風神なんているのか、ということで、ギリシャの夜の女神とする説もあるようです。夜の女神はスカーフを持っているとのことで、そう言われると風神の袋ではなくスカーフかも・・・。

その下の立仏は説明するまでもないですよね。
立仏の下のガルーダは言わずと知れたインド・ヒンドゥーの天鳥。良く見ると、ヘビを咥えています。羽根が分かりやすいかと思います。
そして、その下に風神、その下に月天。


フラッシュ禁止だし、安いカメラなので、散々な写真ですが、風神?とガルーダを紹介。

いわゆる風神
胸があるのが分かるでしょうか。
 
 ガルーダ
蛇を咥えています。


天相図の周囲の壁画、多くの菱形で画面が分割されています。
これはキジル千仏洞の特徴の一つで、菱形の一つ一つに様々な物語が描かれています。



キジル千仏洞の壁画のテーマは①仏伝物語(お釈迦様の一生の事跡)、②因縁物語(お釈迦様が説法で語った因縁のお話)、③本生物語(お釈迦様の前世の物語)です。大乗の高僧鳩摩羅什の像が入口に飾られているものの、実はキジル千仏洞はほとんどが小乗の寺院です。そのため描かれているのは釈迦と過去仏(釈迦の前に生まれた仏陀・悟りを開いた仏)、未来仏である弥勒で天人は描かれても菩薩は描かれていません。

38窟では生まれてから一言もしゃべらなかった男が殺されそうになった時、初めてしゃべったが、それは男の前世が嘘ばかりつく国王で、そのために国を滅ぼしたから・・・・といった因縁物語などが描かれていました。

菱形に描かれた多くの物語の下は、こんな感じ。入口から見た左右の壁を撮ってみました。

   

下の方にはかって説法図が描かれていました。
しかし、仏の袈裟や後光が金箔で飾られていたため削られてしまっています。

説法図の上に描かれているのが、38窟を特徴付ける壁画です。
博物館の暗い所でフラッシュ禁止で撮ったので、よく分からないかも・・・。

   


レプリカばっかりではあんまりなので、ここでオリジナルを絵葉書で紹介。
本物は、こんな感じで見えます。


2人の天人がセットで幾つも描かれています。
それぞれの天人が楽器を持っているのが「音楽洞」と呼ばれる由縁。
左上、琵琶を持った天神と横笛を持つ天神が描かれているのが分かるでしょうか。
他にも笙やシンバル・ハープが描かれていて、見ているだけで楽しい。
顔が黒くなっているのは、元々は赤だったのが変色したもの。
かっての壁画はより色鮮やかだったようです。


こちらは入口の上に描かれた弥勒説法図。
入口の上に弥勒説法図が描かれるのもキジル千仏洞のお約束のひとつ。


弥勒菩薩が足を交差させているのが分かるでしょうか。
敦煌275窟の交脚弥勒菩薩像のようです。
敦煌ではギリシャ・ペルシャの影響と聞きました。


38窟はキジル千仏洞を代表する石窟の一つです。
入場料以外に200元取られます(2015年時点)が、見学しないともったいないです。

38窟の次は32窟・34窟・27窟の順に廻りました。32窟は5世紀の中心柱窟。天上頂上部に天相図が描かれている他、お釈迦様に花を捧げた醜い子供が死後、美しい貴族に生まれたといった因縁物語や、デーヴァダッタがお釈迦様を岩で殺そうとしたという仏伝物語などが菱形の中に描かれています。
34窟は3世紀の僧坊窟を5世紀に中心柱窟としたもの。ここの天相図では龍の姿の雨神が描かれているし、日天が車輪に乗っているのが面白い。まさにギリシャ神話の太陽神です。34窟にはドイツの調査隊が持ち去った壁画の写真も飾られていました。他にも、奥の涅槃仏が置かれていた部屋の天井が遊牧民が生活をしていたことから煤で真っ黒になっているのも興味深い。

27窟は7世紀の少し変わった窟。天井が格子状になっていて、方形の真ん中には蓮が描かれていました。壁には多くの壁龕が作られ、かっては多くの仏像が置かれていたそうです。かすかに残る壁画はヨーロッパ人的な風貌。顔を丸く、目鼻を中心に寄せて描いているのが特徴です。


8窟



続いて見学した8窟は7世紀の中心柱窟。ここは入口上部に描かれた飛天が有名。弥勒説法図は落剝してしまっているのですが、男女・夫婦の飛天が何体か描かれています。その中でも五弦の琵琶を持つ飛天が有名。上の写真の肌の白い飛天がそれで、男性の飛天。五弦の琵琶は今では日本にしか残っていないそうです。黒い肌の飛天は女性で盆を持ち散華しています。
ここの通路には剣を持った賢人が4人づつ描かれていて、十六剣士洞と呼ばれます。

この後見学した10窟は5世紀の僧坊窟で、キジル千仏洞の発見保存に尽力した朝鮮系中国人の韓楽然の刻文が残ります。


17窟



17窟は6世紀の中心柱窟。この窟の菱形の中に描かれた本生物語(釈迦の前世)は見ごたえがあります。上の絵葉書、3人を救うために大蛇に身を捧げる釈迦の前世などが描かれています。他にも、虎に身を捧げていたり、猿の王様だった時、仲間の猿が水を飲もうとすると水妖に食われるので、葦をストローにして水を飲んだ(さすがお釈迦様、猿の時も賢い、という意味?)や、修行中に頭の上に鳥が巣を作り、卵を産んだので、動いてしまうと鳥が死んでしまうと思って身動きをせず、亡くなった(慈悲?)とか、実に面白い。

入口上の弥勒説法図


17窟の天相図の日天も車輪に乗っているし、奥の涅槃仏はうっすらと顔が見えました。


69窟

69窟は7世紀の中心柱窟。10窟で刻文を残した韓楽然が「完全な石窟を発見した」と書き残した石窟です。

小さい石窟ながら、実に壁画が美しく、天人の指先の美しさ、奥の回廊の天井に描かれた天人の見事さ、200元払った価値は十分にありました。

ここも残念ながら絵葉書はなかったのですが、見学後に昼食を摂ったキジル千仏洞研究所に隣接するレストランに飾ってある写真の一つが69窟でした。

右の写真が69窟の燃灯仏。前世の釈迦が燃灯仏を供養し、燃灯仏から必ず悟りを開くと予言を受けるシーンです。
実物の方が色も鮮やか。顔も余り破壊されていません。かっては後光や袈裟に金箔が貼られていたようです。

見事な石窟ですが、実は非常に崩壊が進んでいて、壁が落ちてしまって壁画も失われつつあるのだとか。


保存を考えると特別窟が別料金取られるのも仕方ないのかもしれません。

こちらもレストランの壁を飾っていた写真。何窟のものなのでしょうか。



絵葉書で見学できなかった窟もご紹介。
機会があったら、本物を見てみたいものです。

 171窟
見事な天相図(5世紀)
 204窟亀茲国の王と王妃(7世紀)
(ドイツ探検隊剥取)


更におまけで、行きたかったけど行けなかったクムトラ石窟新2号窟
キジル千仏洞から山を一つ越えたところにある石窟で、開いていませんでした。
絵葉書とレストランのポスター
 
 
 
1つの石窟の見学料だけで500元(1万円)というぼったくりとも言える値段ですが
それでも、見てみたかった・・・。



塩水渓谷

クチャの街からキジル千仏洞に向う途中に塩水渓谷はあります。


上の写真で川のように白く写っているのは塩。雪解けの時期には雪解け水が激しく流れるものの、それ以外の季節は水は枯れ、塩が残るのだそうです。
この渓谷は玄奘も通ったと言われていて、西遊記の映画のロケ地にもなっているのだとか。

中国人が「ポタラ宮」と名付けた岩肌。似ているかと言われると・・・う~~ん。



何とも言えない景観です。
   




スパシ故城

クチャの街から東北約23キロのところに位置するスパシ故城


「スパシ」とはウイグル語で「ス・水」「パシ・頭」、水源といった意味です。クチャ河の源流に位置することに由来するようです。「故城」と名付けられていますが、ここは城ではなく仏教の大伽藍跡。7世紀に訪れた玄奘が大唐西域記に書き記した「昭怙厘(しょうこり)大寺」と考えられています。

クチャ河の両岸に仏教寺院跡が残り、東側を東寺区、西側を西寺区と呼びます。私たちのツアーは西寺区のみを見学しました。東寺区の見学は道がなく、ツアーだと訪れるのは難しいそうです。


遺跡に入るとすぐに大きな建物が見えて来ます。



案内標識によると「西寺大殿」。実に巨大です。



玄奘は大唐西域記で、「東の昭怙厘大寺の仏堂には卵色の巨大な玉石の上に刻まれた仏陀の足裏の跡(仏足石)があり、西の昭怙厘大寺の仏堂には門の左右に30mの高さの仏像があり、クチャの街からも仏像を見ることができた」と書き記しています。
巨大な仏像・・・・どこにあったんでしょうか。

現地ガイドさんによると、ここは礼拝堂。遺跡には他にも仏塔や禅室・僧坊が数多く残っているそうです。

遺跡は遊歩道が出来ていて、遊歩道の上を歩く形で観光します。
左の写真は西寺大殿を内側から撮ったもの。
できれば近くに寄って、色々と見たいところですが、遠くから見ると巨大な建物だったことは分かるものの、細かい構造は分かりません。

現地ガイドさんの説明では、この建物は煉瓦ではなく、判築といって土を固め、水を撒いて、藁を敷き、それを固める・・・ということを繰り返して建てられたものだそうです。


西寺大殿から、対岸の東寺区が良く見えます、
東寺区の仏塔を撮ってみました。



西区の広さは南北700m、東西180m。
多くの寺、仏塔、禅室、僧坊がありました。
東区の方がやや小さく、南北535m、東西146mだそうです。
玄奘によれば「亀茲には伽藍が百余カ所」あり、「僧徒は五千人余」

   

多くの建物があったことは分かりますが、往時の姿を想像するのは難しい・・・。



西寺中部仏塔



西寺中部仏塔からは少女のミイラが発見されています。
少女の頭は扁平に変形されていました。
玄奘が記した当時の亀茲の風俗そのものです。


この仏塔、昔は登れたようですが、今は登れません。


現在のスパシ故城からは、かって大伽藍や仏塔、多くの僧坊・禅室が建ち並んでいたことを想像するのが精いっぱい。土色の景色からは往時の景観を想像することはできません。

しかし、ここからは多くの貴重な文物が発掘されていて、かっての亀茲の繁栄を偲ばせます。

たとえば、右はスパシ故城から発見された高僧の舎利盒(骨・灰を入れる箱)の絵葉書。華やかさに見とれます。

でも、どっかで見たような気がしたので、調べたら、日本の大谷探検隊が発見したもので、東京国立博物館にあるそうです。もしかしたら世界史の教科書にも載っていたかも。

蓋部分には有翼の童子。どこか西洋風。
そして、盒身には21人もの歌舞伎人が描かれています。人物の服も中原とは全く異なります。
亀茲国の音楽は当時中原でも有名だったそうです。きっと実際の楽人や舞人の姿を写したものなのでしょうね。

この舎利盒は7世紀に作られたもの。玄奘と同時代です。玄奘は亀茲に六十余日滞在したといいます。滞在中に、このような歌舞を目にしたかもしれません。



安物のカメラなので望遠に限界がありますが、東寺区を撮ってみました。
風が強くて砂で煙っているのが残念。レンズも砂でやられてるみたいですが・・・・。


かって、西寺区と東寺区は多くの船が行き交っていたといいます。

東寺区の仏塔付近を狙ってみました。



多くの仏教遺跡が残るクチャ
機会があったら、ゆっくり石窟巡りをしたいものです。
クムトラを見たい・・・。


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参考文献

玄奘三蔵 岩波新書 前嶋信次著
玄奘三蔵、シルクロードを行く 岩波新書 前田耕作著
シルクロード・新疆仏教美術 新疆大学出版社
新疆国寶録 新疆人民出版社漢文発行所

基本的には現地ガイドさんの説明を元にまとめています。