ヤシュチラン

メキシコとグアテマラの国境を流れるウスマシンタ川。
その川沿いにあるヤシュチランは美しいリンテルで有名。
多くが大英博物館やメキシコ国立人類学博物館等に移されましたが、
今でもジャングルの中に美しいリンテルが残っています。
2003年1月、2014年3月訪問

建造物20のリンテル


ヤシュチランは4世紀から9世紀にかけて栄えた古典期マヤの遺跡です。かっては「パ・チャン」と呼ばれていたそうで、それは「割れた空」とか「空の始まるところ」という意味だそうです。

ヤシュチランは最初にも書いたようにメキシコとグアテマラの国境を流れるウスマシンタ川沿いにあり、観光するにも川をボートで行かなくてはなりません。国境の町フロンテラ・コロサルからボートに乗って出発するのですが、船着場の対岸はグアテマラ。まさに国の境です。

写真は2014年3月の船着場の様子。乾季の終わりに近いせいか2003年1月に訪れた時より随分と水位が低い。マヤの時代は最も川の水位が低くなる4月に戦争が行われたそうです。


ヤシュチランが栄えた古典期マヤでは交易は川を利用して行われるものでした。ジャングルは危険が多すぎるというわけです。

そのため川沿いに交易センターが栄えることが多く、なかでもウスマシンタ川はグアテマラのペテン低地とメキシコ湾を結ぶ重要な川であることから、流域には多くの都市がありました。

上流(グアテマラ)のペテン低地にはセイバルやドス・ピラス(現グアテマラ)、下流にはピエドラス・ネグラス(現グアテマラ)、更に下流の高台にはパレンケ。

また、壁画で有名なボナンパクはヤシュチランに近いラカンハ川沿いにあり、30キロほどしか離れていません。

現在の遺跡観光でもパレンケからヤシュチランやボナンパクを訪れるのが一般的なほど近い場所にあります。

このような位置関係からヤシュチランは栄えたわけですが、同時にウスマシンタ川の覇権を巡り、近隣諸国との争いが繰り返されました。

 特にピエドラス・ネグラスとの争いは建国当初から極めて長期間に渡り繰り返されたようです。

ヤシュチランは358年に初代王ヨアート・バラム王が即位したことに始まりましたが、この王の時代からピエドラス・ネグラスとの争いも始まっています。

建国当初はヤシュチランが勝利したことが多かったようで、9代王結び目ジャガー王は強力な軍事的指導力でピエドラス・ネグラスを破ったばかりか、ボナンパクやあの強国ティカルからも捕虜を手にしたほどでした。

しかし、結び目ジャガー王はピエドラス・ネグラスと繰り返される戦いの中で520年ころ捕虜となってしまい最後を迎えます。

この520年前後の結び目ジャガー王の敗北以降、しばらくの間ウスマシンタ川の覇権はピエドラス・ネグラスが握り、ヤシュチランは従属国的立場となったようです。

その後、小さな勝利はあったものの、ヤシュチランが再び力を蓄えだしたのは681に即位したイツァナーフ・バラム2世(楯ジャガー2世)の時代。
現在のヤシュチランの建造物の多くは、この楯ジャガー2世と、その息子の鳥ジャガー4世により築かれたものです。

 ヤシュチランにはコロサルから川を下って行くのですが、ウスマシンタ川の流れは緩やかで下っているのか上っているのかも分かりません。ボートはライフジャケットの着用が義務付けられているのですが、コワイ感じは全くなく、ひたすら風が気持ちいい。2003年の時には小さなワニを見ることもできました。出発から45分ほどでジャングルの中に建造物が見えました(左下)。ヤシュチランの一部のようです。まもなく到着。右下の写真が遺跡の船着き場。ここも対岸はグアテマラです。

   


船着場から階段を上がって遺跡へ。2014年は遺跡に入ってすぐに、お猿さん達の歓迎を受けました。ホエザルかクモザルかは分からなかったけど・・・・。ヤシュチランはジャングルの中、緑の濃い遺跡です。そういえば2003年の時はホエザルの鳴き声が凄かった。

遺跡を進むと、すぐに下の写真のような建造物・・・・まるで、城壁のようなものが現われます。



人との比較から大きさが分かるかと思います。
上の写真、左に進むと、次のような景色となります。

両脇の高い城壁のような岩壁の間に細い道をがあり、その先に建物があります。

右の写真の奥に、小さな入口があるのが分かるでしょうか。
建物には屋根飾りも付いています。

ヤシュチランの遺跡に入るには、この建物を通らなくてはなりません。
都市の防御ということが非常に考えられていたことが分かります。
それだけウスマシンタ側の覇権を巡る争いが厳しかったということでしょうか。

この奥の建物、建造物19というのが現在の正式名称のようですが、俗に「迷路」「ラビリンス」と言われています。

余り大きな建物ではないのですが、中に入ると暗闇の中を進まなくてはならず、自分の位置関係が分からなくなることから「迷路」と呼ばれているようです。

この建物は楯ジャガー2世が亡くなった後、鳥ジャガー4世が即位するまでの間に造られました。実は、この時期、ヤシュチランの謎の時期でもあります。


グランプラザ

建造物19、「迷路」を抜けると、そこには開けた空間が広がります。
ここからがグランプラザです。
写真はグランプラザ側から見た建造物19「迷路」




グランプラザといっても、ご覧の通りのジャングル。
ジャングルの中に多くの建造物が残っています。
2003年はホエザルの声が凄かったのですが2014年は静かでした・・・。




広場を進むと球技場がありました。


この球技場、一見すると、よくあるマヤの球技場ですが、実は球技場の中央部分・・・真ん中の低い部分に3つの石と溝があります。この3つの石は得点板とも考えられていて、他では見られないヤシュチランならではのものなのだそうです。



遺跡を進むと左右に建造物が現われます。
これは進行方向左手の、たぶん建造物11。ここのリンテルはマヤ文字。王名表だそうです。
   
リンテルというのは入口の天井部分。まぐさ石とも言われます。
入口で上を見上げた時に見える石。
下向きであるため雨風による摩耗が防げたため保存状態が良いものが多いのです。
ヤシュチランの魅力は、素晴らしいリンテルが多いこと。
建物の入口では頑張って体を屈めて上をチェック。



更に進むと巨大な階段が現われます。大階段です。

ヤシュチランはウスマシンタ側沿いにある都市ですが、元々の地形は川に沿った丘のようになっているのだそうです。

これまで歩いてきたところは平らな広場のようになっていましたが、それは人工のテラスということでした。
人の手で土地を平らにして広場にし、そこに多くの建造物を建てたわけです。

しかし、ヤシュチランでは、この人工のテラス部分だけでなく、丘の斜面や頂上にも多くの建物が建てられています。

この大階段の奥・頂上には建造物33があり、階段の中腹にも建物があります。

そして、階段の下の方は基壇のように左右に広がっていて、そこにも多くの建造物が残っています。
左の写真で下の方に石碑が写っていますが、その後方上段にも建造物が写っているのが分かるでしょうか・・・・。

実際には右側にも幾つも建造物があります。



この大階段に面して広場があります。多くの石碑が並ぶ広場です。




広場の奥の方に巨大な石碑が横に寝た状態で置いてあります。これは鳥ジャガー4世が作った石碑11。父王である楯ジャガー2世が鳥ジャガー4世に王位を授ける場面が彫られています。実はこの石碑は鳥ジャガー4世が自分の王位継承を正当化するために歴史を改竄したものなのです。



鳥ジャガー4世が歴史改竄をしたのはヤシュチラン王家のお家事情が関係しています。

既に述べたように、楯ジャガー2世はピエドラス・ネグラスに従属していたヤシュチランを再び隆盛に導いた王です。楯ジャガー2世の治世は60年にも及び、その間、王は精力的な建築活動をしており、豊かな財力をヤシュチランが手にしたことをうかがわせます。


楯ジャガー2世には妻が4人いました。
正妻はカバル・ショーク王妃。彼女は非常に王に大事にされたらしく、建造物23は彼女のために捧げられたもので、そこを飾っていた彼女と王を描いたリンテルはヤシュチランを代表する芸術作品です。その多くは芸術性の高さから大英博物館などで展示されています。

鳥ジャガー4世はカバル・ショーク王妃の息子ではありません。彼の母は3番目の妻でイク・頭蓋骨王妃といいます。彼女はカラクムルの王族出身だったのですが、楯ジャガー2世存命中は特に石碑に刻まれる存在ではありませんでした。

楯ジャガー2世が死亡したのは742年。
鳥ジャガー4世が即位したのは752年。
実に10年ものブランクがあります。
つまり楯ジャガー2世が鳥ジャガー4世を王位継承者としたとは考えられないのです。

この空白の10年間についてピエドラス・ネグラスにはヤシュチラン王の即位をピエドラス・ネグラスの王が後見したとの記載があります。
しかし、その王の名はヤシュチランの歴史からは消されています。
どうやら、消された王の後、鳥ジャガー4世が即位したようなのです。

石碑の人物部分をアップで撮ってみました。
右側が鳥ジャガー4世で左側が父王の楯ジャガー2世だそうです。
   



この広場には他にも石碑がいっぱい。

左下は残念ながら上半身が失われています。
右下、人物の頭飾りが綺麗なので調べたら、なんと6世紀の結び目ジャガー1世でした。
鳥ジャガー4世の200年前のご先祖で、幾つもの戦いに勝利しながら、最後は捕虜となった王です。
   



この石碑も上部が失われているのですが左下に美しい人物像が残っていました。
   



左下 これも上部が失われています。人物が3人いるようです。綺麗なだけに残念。
右下は保存状態が余り良くないですが・・頭飾りを付けた人物?
   



広場の奥には建物もいくつか残っています。左下の写真は神聖文字の階段。今ではほとんど分かりませんが、かってはマヤの神聖文字が刻まれていました。ヤシュチランの歴史が刻んであったものです。右下の写真は赤い神殿と呼ばれる建造物。

   



次は、大階段の下の基壇にある建造物に向います。
大階段の左に建造物20・21、右に22・23・24があります。




まずは左側の建造物20。鳥ジャガー4世の息子である楯ジャガー3世が建てた建物です。
ここには見事なリンテルが2つ残っています。


右の男性が鳥ジャガー4世、左の女性が妻の「偉大な頭蓋骨」王妃
楯ジャガー3世が両親を描いたものです。

人物をアップで撮ってみました。
王と王妃の頭飾りや豪華なネックレスが見事です。



こちらはやや保存状態が悪いですが、やはり鳥ジャガー4世と偉大な頭蓋骨王妃




建造物20の隣、大階段の横が建造物21

建造物21は鳥ジャガー4世が母であるイク頭蓋骨王妃のために建てたものです。正妻だったカバル・ショーク王妃のために父楯ジャガー2世が建てた建造物23を模したものと言われています。
内部には壁に漆喰で人物像が描かれ、彩色もわずかに残っています。人物の顔が残っていないのが残念ですが、なかなかに美しいものでした。




 上の写真の石碑を正面から撮ってみました。長いウィピルを着た女性の姿です。鳥ジャガー4世の母であるイク・頭蓋骨王妃の姿でしょう。彼女はカラクムルの王女でした。彼女の人生を考えると、ちょっと複雑な気持ちになります。

楯ジャガー2世は742年に亡くなった時、90歳を越えており、鳥ジャガー4世は752年に即位した時、43歳でした。

つまり、鳥ジャガー4世が生まれた時、父の楯ジャガー2世は60歳近かったことになります。このことから、彼女は楯ジャガー2世が高齢になってから嫁いできた可能性が高いわけです。

一時はマヤ世界一の権勢を誇ったカラクムルがティカルに大敗北をしたのが695年。
その後730年代前半にもカラクムルはティカルに敗北し、衰退期に入っていきました。
そのような時期に嫁いできた彼女はヤシュチラン王室の中でも微妙な位置にいたのではないかと想像できます。

楯ジャガー2世の正妻カバル・ショーク王妃は楯ジャガー2世没後6年で亡くなっていますが、亡くなるまで権勢を誇ったとのことです。これに対し、楯ジャガー2世の存命中の碑文の中でイク・頭蓋骨のことが書かれたものはありません。

鳥ジャガー4世が即位についたのがカバル・ショーク王妃の没後だというのもヤシュチラン王家のお家騒動を想像させます。

鳥ジャガー4世が即位した時には既に母イク・頭蓋骨王妃は亡くなっていたそうです。
母の像を刻むことは鳥ジャガー4世王自身の権威を強めるためだけではなかった気がします。
   



建造物21から大階段を挟んで反対側に建造物22・23・24があります。
建造物22のリンテルは見事なマヤ文字。ヤシュチランの歴史が刻まれているそうです。
   



建造物22に隣接して建造物23・24があります。


この建造物23・24は楯ジャガーの正妻カバル・ショーク王妃のためのものと考えられています。

建造物23からは豪華な翡翠の装飾品とともに女性の骨が見つかっており、副葬品だった動物の骨のナイフに「カバル・ショークの放血の儀式のためのもの」と刻まれていたことから、カバル・ショーク王妃の墓とされています。隣接する建造物24は王妃の霊廟だったと思われます。


この建造物23から発見されたリンテルは大変見事なもので、ヤシュチランの芸術性の高さを示すものとされています。

最も素晴らしい2つのリンテルは大英博物館に運ばれてしまっているのですが、その1つは放血の儀式を行うカバル・ショーク王妃が双頭のヘビの頭から戦士が姿を現す幻影を見るという幻想的なもの。
これを模したものを楯ジャガー2世の側室だった母のため鳥ジャガー4世が建てています。
また、もう1つの大英博物館に運ばれたリンテルは放血の儀式を行うカバル・ショーク王妃とたいまつを持つ楯ジャガー2世という力強いもの。

是非、大英博物館に行って見てみたいものですが、メキシコシティの国立人類学博物館で展示されているリンテルもなかなかのものです。

右がメキシコシティの国立人類学博物館で展示されているリンテル26。

向い合う楯ジャガー2世とカバル・ショーク王妃で、王妃がジャガーの兜を王に手渡す様子が描かれています。



大階段を登って建造物33を目指します。
階段の途中にも建造物25・26があります。
寄り道しながらでも、結構息が切れる高さの大階段。
現地ガイドさんは40mと言っていたような・・・。
登りきると正面に建造物33が現われます。

   



グランアクロポリス

建造物33の周囲はグランアクロポリスと呼ばれています。

建造物33には3つの入口があり、大きな屋根飾りが付いています。



建造物33は鳥ジャガー4世が即位を記念して建てたもので中央の部屋には頭の取れた父王楯ジャガー2世の座像があり、父王を祀る形になっています。かっては各部屋の入口の上や、屋根飾り正面に漆喰の人物像が飾られていたそうです。鳥ジャガー4世や祖先たちだったのでしょうか。

この建造物の前からは豪華な墓が発見されていますが、埋葬者はまだ特定できていません。


建造物33の入り口には不思議な石碑があります。球技をしている3人の人物。人物はそれぞれ鳥ジャガー4世と父の楯ジャガー2世、祖父の鳥ジャガー3世ですが、この球技、普通の球技ではなく、なんと球になっているのは捕虜なんだそうです。なんでもマヤの神話で「3つの勝利」というものがあり、それに関係しているのだとか。下は鳥ジャガー4世が2人の小人に見守られながら、捕虜ラカムトゥーンの王を受け止めようとしているところだそうです。本当にやってたんでしょうか・・?




上の石碑の両脇に下の石碑があります。
鳥ジャガー4世の父・楯ジャガー2世と祖父・鳥ジャガー3世。
どちらもボールは捕虜のはず・・・。
   



建造物33では3つの入口のリンテルも見事です。

鳥ジャガー4世と息子(後の楯ジャガー3世)が「鳥の杖」の踊りを踊っているところ。



手に持っているのが「鳥の杖」でしょうか。
   



他のリンテルも綺麗でした。

こちらは王と王妃のようです。儀式の様子だそうです。



これも美しい。鳥ジャガー4世が神の小像を手にしています。



美しかったので、これもアップで撮ってみました。




建造物33の周囲には、かっては上流階級の人々が住んでいたと考えられています。でも、今は建造物33の他は余り見るものはありません。

今度はジャングルの中を通って小アクロポリスに移動することとなりました。建造物33の裏を下って行きます。

小アクロポリスは西アクロポリスとも呼ばれていて、遺跡入口近くの丘の上にあります。
グランプラザに戻ってから行くこともできるのですが、ショートカットするためジャングルを通り、小アクロポリスを見て、遺跡入口の船着場に戻るという計画です。

ヤシュチランには小アクロポリスの他にも周囲の丘の上に建造物が点在しているらしいのですが、残念ながら時間の都合で諦めるしかありません。



小アクロポリス

ジャングルの中を下ったり登ったりして小アクロポリスに着きました。
現地ガイドさんが居ないと迷いそう・・・。最後はきつい登り道です。



小アクロポリスと言っても、かなり立派です。遺跡に説明図がありました。

建造物42・43・44・・・と多くの建物が中庭を囲むように並びます。
かっては上流階級の人々が暮らしていた場所と考えられています。

ここの建造物44は楯ジャガー2世が戦勝記念として建てたもの。建造物42は鳥ジャガー4世が建てたものです。

興味深いのは、この周囲から尖頭式石器がたくさん発掘されているということ。防御的意味合いが強いのではないか、とのことでした。ウスマシンタ川の覇権を巡る争いは熾烈なものだったようです。


基壇に続く階段(左下)と基壇の上の建造物で囲まれた中庭(右下)
   


基壇の上から周囲を見下ろすと、下にも多くの建造物があることが分かります。
   



建造物のリンテルには美しいレリーフや色のついたものもあって、ちょっとした宝探し気分。
左下は建造物42の鳥ジャガー4世のレリーフ。右下と中央は建造物44の楯ジャガー2世。
     


鳥ジャガー4世の息子である楯ジャガー3世はボナンパク・ラカンハといった属国の支配を強化しました。有名なボナンパクの壁画を描いた王の妃は楯ジャガー3世の妹だそうです。
そして、鳥ジャガー4世の孫にあたるキニチ・タトゥブ・頭蓋骨3世がついに宿敵ピエドラス・ネグラスを倒します。しかし、マヤ古典期終焉の波はヤシュチランにも及び、大勝利後まもなくヤシュチランも終焉したと考えられているそうです。




国立人類学博物館

遺跡の建造物23で国立人類学博物館所蔵の美しいリンテルを紹介しましたが
国立人類学博物館のマヤ室にはヤシュチランのリンテル・石碑が数多く展示されています。


楯ジャガー2世の戦勝記念の石碑
左下は石碑18・捕虜の髪を掴む楯ジャガー2世、右下は石碑15・ひざまずくのは捕虜となったラカンハ王
   


リンテル53・儀式にのぞむ楯ジャガー2世と妃(左下)。イク頭蓋骨ではない妃だそうです。
リンテル32・鳥ジャガーー4世が父楯ジャガー2世と母イク頭蓋骨を一緒に描いたもの(右下)
   



石碑10・鳥ジャガー4世の姿が両面に彫られた巨大な石碑(左下)。裏は保存状態が余り良くありません。
リンテル43・鳥ジャガー4世と妃(右下)。一部欠けていますが、非常に保存状態が良いレリーフです。
   



左下はリンテル58・鳥ジャガー4世から王権の象徴である王笏を継承する楯ジャガー3世
右下はリンテル9・鳥ジャガー4世が義理の兄弟である偉大な頭蓋骨とはためく杖を交換する場面
偉大な頭蓋骨は鳥ジャガー4世の息子楯ジャガー3世の摂政だったとも言われているそうです。
   


ヤシュチランの遺跡は探検気分が味わえて見どころたっぷり。
遺跡内のリンテルだけでも見ごたえがありますが
国立人類学博物館のリンテル・石碑の充実度を見ると
どんな芸術家集団がヤシュチランにいたんだろうと考えてしまいます。

最初に訪れた時は知識不足で、ずっと再訪したいと思っていました。
念願かなって満足。



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参考文献

古代マヤ王歴代誌(創元社 サイモン・マーティン/ニコライ・グールペ著 中村誠一監修)
古代マヤ文明(河出書房新社ふくろうの本 寺崎秀一郎著)
メキシコ国立人類学博物館 日本語版(ボネーキ出版社)メキシコ国立人類学博物館にて購入 
古代メキシコ 日本語版(ボネーキ出版社)メキシコ国立人類学博物館にて購入
マヤ 日本語版(ボネーキ出版社)メキシコ国立人類学博物館にて購入
古代マヤ・アステカ不可思議大全(草思社 芝崎みゆき著)
マヤ・アステカ遺跡へっぴり気候(草思社 芝崎みゆき著)

基本的には現地ガイドさんの説明に基づいてまとめています。