アーグラ城

ムガール帝国の都だったアーグラのアーグラ城
アクバル大帝とシャー・ジャハーンによって築かれた城は
ムガール帝国の歴史を語る城でもあります。

2005年12月訪問

写真はアマル・シング門とアーグラ城の城壁

アーグラ城は16世紀に建てられたムガール帝国の象徴とも言える城です。赤い城壁が印象的。
堀をめぐらしていて、結構無骨なつくり。城壁の全長は約2・5キロ、城壁の中に多くの宮殿や謁見の間、モスクまであります。

アーグラ城はムガール帝国・3代皇帝のアクバル大帝によって建てられましたが、当初は要塞としての色彩が強く、余り住み心地はよくなかったそうです。その後、アクバル大帝の孫にあたる5代皇帝シャー・ジャハーンが宮殿などの増改築を行ったとのこと。シャー・ジャハーンはタージ・マハルを建てた皇帝ですね。

ということで、このお城はアクバル大帝が建てた部分とシャー・ジャハーンが建てた部分があるわけですが、見分け方はとっても簡単で、赤砂岩でできているところはアクバル大帝、白大理石でできている部分はシャー・ジャハーンと考えれば、大体間違いがないそうです。


アーグラ城にはアマル・シング門から入ります。
アクバル大帝が城壁を建てた1世紀後に外壁が造られたため、城は二重の城壁で守られています。
武骨な印象で、元々要塞だったというのも納得。
城壁には一定間隔で円形の櫓(左下)。アマル・シング門を入ると立派なアクバル門(右下)
   

ムガール帝国のムガールとはモンゴルということ。元々は中央アジアのティムール帝国の末裔であるバーブルがインドに進出して築いた帝国です。バーブルは1526年にローディ朝を倒し、ムガール帝国を興しました。しかし、2代皇帝フマユーンは一度は領土を失い、その後、デリーを取り戻したものの間もなく事故死。3代皇帝アクバルはわずか13歳で皇位につきますが、成長するに従い才能を発揮し、アーグラを都として領土を拡大し、帝国の基礎を築きます。アクバル大帝の時代の建築物が要塞としての色彩が強いのもそのような時代背景があってのことなのでしょう。


アマル・シング門を入って進むと右手に立派な宮殿が見えて来ます。
完全に逆光となりましたが、これはジャハーンギール宮殿


ジャハーンギールはアクバル大帝の息子でムガール帝国4代目。ジャハーンギールの名前が付いていますが、この宮殿を建てたのは父アクバル大帝。赤い砂岩に白い大理石が埋め込まれています。左右についた小塔が特徴的。
アクバル大帝はイスラム教徒ですが、帝国を築くに当たり、ヒンズーとの融合を図ったということで建物にもイスラムとヒンズーの融合が見られるということです。



城内を進むと広大な庭園と白い建物が見えてきました。
シャー・ジャハーンが建てた謁見の間です。




ムガール様式の庭園と、その先にある皇帝の寝室ハース・マハル(正面)。
両脇に変わった屋根の建物がありますが、これはシャー・ジャハーンが2人の娘のために建てた館




5代目のシャー・ジャハーンの時代は帝国も安定し、絶頂期を迎えます。その時代の建築物は皇帝好みの白い大理石で築かれ、内部は美しい象嵌で飾られました。タージ・マハルを建造した皇帝の美意識は宮殿でも発揮されています。今でも十分に美しいですが、かっては金銀宝石で飾られていた(イギリスが持ち去ってしまっています)というのですから、よりきらびやかな美しさだったのでしょう。

   


シャー・ジャハーンが娘のために建てた宮殿
屋根が黄金であることからゴールデン・パピリオンとも呼ばれます。



皇帝や娘たちが暮らした場所はヤムナー川を見下ろす位置にあります。
かっての美しさを偲ばす宮殿内部




宮殿内に残る装飾とテラスから見た宮殿
   


ムガール帝国の絶頂期を築いたシャー・ジャハーンは晩年になると息子であるアウラングゼーブにより幽閉されることとなります。兄弟間の王位継承をめぐる争いによるもので、シャー・ジャハーンはタージ・マハルの見える城内の一室に幽閉されたまま余生を送りました。

シャー・ジャハーンが幽閉され、タージ・マハルを眺めていたという塔は「囚われの塔」と呼ばれていて、確かに、ここからはタージ・マハルをかすかに見ることが出来ます。

   


アーグラ城の中には大モスクが1つと小モスクが2つああります。左下の写真はゼナーナ(後宮)内にあるナギーナ・マスジドと呼ばれる小モスク。後宮の女性たちのためのモスクだそうです。
全て白大理石で造られ、繊細な細工が施されていて、女性的な美しさ。中央部の庇だけが曲面のベンガル風屋根をしています。周囲には美しい象嵌が残っていました(右下)。

   


アクバル大帝とシャー・ジャハーン帝によって築かれたアーグラ城ですが、シャー・ジャハーンの息子である6代アウラングゼーブ帝が1707年に遠征先で倒れると徐々に衰退していきます。

アウラングゼーブ帝の後継者達は各地の藩王達を押さえることができず、各地の藩王達が独立性を強め、帝国は弱体化していきました。

これにより、それまでムガール帝国と争っていたインド中西部のマラータ王国が侵攻を始めます。
アーグラ城は2度に渡ってマラータ王国の軍団に占拠され、兵達が略奪を尽くしたといいます。

更に1803年には、イギリス軍が占拠しますがその時には宮殿は既に荒れ果てていたとのだとか・・・・。
現地ガイドさんはイギリスが宮殿の金銀宝石を奪い取ったと説明していましたが、どうやら、その前に既にインド人によって略奪されていたというのが真相のようです。

1857年のセポイの反乱でアーグラ城は戦場と化し、その荒廃に止めを刺すこととなりました。


大モスク(真珠モスク)などが見学できないのは残念ですが
アーグラ城はムガール帝国の栄華と皇帝たちの歴史を感じさせる場所です。
タージ・マハルを遠く眺めることができるのも印象的。



南アジアの遺跡に戻る




参考文献

ユネスコ世界遺産D(講談社)
世界遺産を旅する8(近畿日本ツーリスト)
21世紀世界遺産の旅(小学館)

基本的には現地ガイドさんの説明を元にまとめています。