コリントス遺跡

多くのギリシャ神話の舞台となった街
交易で潤った商業都市で歓楽街も抱えていた街
幾つもの顔を持つコリントス遺跡を訪れました。
2020年1月訪問

写真はコリンティアコス湾を背にしたアポロン神殿


ペロポネソス半島の入り口に位置するコリントス遺跡。神話では神をも欺くほど狡猾なシーシュポスが街の創設者。イアソンがメディアを離婚し、オイディプス王の育ての親が治めたとされるなど多くのギリシャ悲劇の舞台にもなっています。他方でコリントスは古くから交易の要衝として繁栄した商業都市であり、街の守護神アフロディテを祀る神殿が千人もの聖なる娼婦を抱えていたという当時の男たち憧れの歓楽街でもありました。「男たちが皆、コリントスへの船旅を許されているわけではない」との格言もあったのだそうです。身を持ち崩す男も多かったんでしょうね。

何とも魅力あるコリントスですが訪れるツアーが少ないので自由時間の多いツアーに参加してタクシーをチャーターして一人で行ってみました。アテネ市内から高速道路を利用して1時間20分。

遺跡にあった案内図をもとに地図を作ってみました。
音楽堂と劇場はチケットが必要なエリアの外にあります。


遺跡入口から道を挟んで反対側に遺跡らしきものが見えます。
音楽堂だと思うのですが、まずはチケットを買って遺跡に入りました。

入り口正面が博物館なのですが、左手にグラウケの泉とアポロン神殿が見えます。
コリントスの遺跡はほとんどがローマ時代のものでギリシャ時代のものはこの2つだけ。
気になるので博物館の前に見学することとしました。


グラウケの泉

ここはイアソンに恋し、結婚しようとしたコリントス王女グラウケが
イアソンに離婚されたメディアから贈られた衣を着て火だるまになり、飛び込んだとされる場所


イアソンは黒海東岸コルキス(現ジョージア)の王が所有する黄金の羊の皮を求めアルゴー船で旅をし、眠らない竜が守るとされた金羊毛を得た英雄です。しかし、その偉業は実はコルキス王女メディアの魔法の助けを得てのものでした。イアソンに恋したメディアは国も家族も全てを捨てイアソンを助け、コリントスまで移り住んで子供2人をもうけます。しかし、イアソンはコリントス王の婿となることに目がくらみ、メディアを離婚。ここは悲しみと怒りからメディアが魔法を用いてグラウケに復讐した場所。悲劇作家エウリピデスは、グラウケを焼き殺したメディアは更にイアソンとの間に生まれた我が子を殺し、この地を去ったと描きました。そんな悲劇の舞台のはずなのですが泉という感じがしません。この建物は何なのでしょう。左手が低くなっているので、ここが本来の泉?

遺跡に復元図がありました。ヘレニズム時代(前4世紀〜前1世紀)のもののようです。
ギリシャ時代のものと聞いていましたが、結構新しいものなのですね。


どうやら、ここは泉から水を引いて人々が水を汲む貯水槽だったようです。

ちょっと回り込んでみました。中に人が入れそうですね。


ギリシャ神話はミケーネ文明(前1450年〜前1150年)の社会を反映したものと言われます。
きっとメディアの時代は(メディアが本当にいたのか、モデルがいたのかは不明ですが)
このあたりに飛び込める泉があって、後に貯水槽が造られたんでしょう。
それにしてもイアソンは酷い男だと思いつつ、
少し小高い所に見えるアポロン神殿に移動します。


アポロン神殿



コリントス遺跡で一番見たかったアポロン神殿。

紀元前6世紀中ころに建てられた神殿で、ギリシャに残る神殿の中で最も古い神殿の一つとされています。

ドーリス式の柱は、全て1つの岩から丸ごと彫りだされたもの。柱は太く、柱頭の装飾は簡素。

ギリシャの神殿は、かっては木と煉瓦で建てられていました。紀元前6世紀ころから石造の神殿が建てられるようになりますが、当初は木造であった頃の様式が踏襲され、柱も木材を利用した時の形を石で再現する形で建てられたのです。

後の神殿建築では輪切りにした石材を重ねて柱とするようになりますが、1つの岩から掘り出されたドーリス式の柱はなんとも力強く存在感があります。

柱の力強さにも感動しましたが、海が見えることにも感動しました。
ペロポネソス半島の付け根に位置するコリントスは海が近い。港湾都市として交易で栄えたというのも納得です。

神殿から見えたのはコリンティアコス湾
海が見えるだけでなく、神殿の背後(南側)にはアクロコリントスの丘


アクロコリントスは古代コリントスのアクロポリスがあった丘。北にはペロポネソス半島と本土を分けるコリンティアコス湾、南にはサロニコス湾を臨む要衝の地で、古代から城砦が築かれてきました。コリントスの創建者であるシーシュポスの城もアクロコリントスにあったとされ、実際にミケーネ文明の遺物が発掘されているそうです。また、古代ギリシャ時代にはその頂上にアフロディテの神殿も築かれました。アポロン神殿は海とアクロポリスを臨む場所に建てられていたのですね。アポロン神殿全景を撮りたくて少し引いて撮ってみました。神殿には今は7本の柱と基礎部分しか残っていませんが、元々は38本の柱があったそうです。



アポロン神殿は正面と横で柱の間隔が違うのだそうです。



アポロン神殿に見とれて周囲を何周もしてしまいました。
アポロン神殿からはアゴラも見下ろせます。


アゴラも見なくてはなりません。
時間が無くなるので、まずは博物館に移動します。

博物館

ローマ時代の出土品が多い博物館でしたが、古い時代から紹介します。

ミケーネ期



紀元前1300〜1180年の壺や両手を挙げた女神像。ミケーネ時代の墓からの出土品です。ミケーネ文明を代表するミケーネ・ティリンスには及ばなかったものの、既にコリントスは栄えた街だったようです。このころシーシュポスのモデルとなった王様がいたんでしょうか。神を欺いたシーシュポスは罰として、巨石を山頂まで運ぶように命じられますが、あと少しで山頂に届くところまで運ぶと巨石は底まで転がり落ちてしまい、その苦行が永遠に繰り返されることとなったと言われます。でも、神をも欺くって、実は凄い実力者だった気がします。トロイ戦争の知恵者オデッセウスの実の父親とされたり、妻がプレアデス星団の7人娘の一人であるメロペーでシーシュポスの末路を恥じた彼女が身を隠したためプレアデス星団の星の一つが暗くなった・・という神話からも、シーシュポスって、ただものではない気がするのですが。


アルカイック期(前800〜前480年) 

前6世紀の壺



ミケーネ文明は前12世紀ころ謎の衰退を迎え、その後、前800年ころまでギリシャは暗黒時代と呼ばれる停滞期が続きました。

そして、前800年ころから各地にポリスが誕生し始めます。このころからアテネが大国ペルシャを破る前480年ころまでをアルカイック期といいます。

コリントスの博物館には多くのアルカイック期の出土品が展示されていました。
古代ギリシャというと、どうしてもアテネの繁栄が思い浮かびますが、実は暗黒時代後に最初に繁栄を迎えたのはイオニア(トルコ西部・エーゲ海東岸)とコリントスでした。

コリントスは陶器の輸出等で大いに潤い、ギリシャ世界屈指の財力を誇ったといいます。
そして、コリントスは前7世紀にいち早く僭主制を導入し、シチリアのシラクサを始めとする多くの植民市を建設していきました。

左はアポロン神殿を飾っていた装飾。前6世紀中ごろに建てられたアポロン神殿はコリントスの最盛期に建てられた神殿といっても良いのかもしれません。

前575〜550年ころの美しいスフィンクス。アルカイックスマイルが素敵。
   


ライオン像
 
 前7〜5世紀のクーロス(青年像)

ペルシャ戦争後、勢力を拡大したアテネに対し、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟との間でぺルポネソス戦争が起こります。コリントスは軍事力に優れていたスパルタを経済的に支え、アテネに勝利しました。その後、スパルタが覇権を握ると、今度はアテネ・テーベと同盟してスパルタと戦い、勝利します。しかし、ポリス間の戦いでギリシャは次第に疲弊し、隆盛したマケドニアの支配に入ることになりました。アレクサンダー大王の死後、一時は自立しますが、結局前146年にローマ帝国に敗北し、街は徹底的に破壊されます。博物館にアルカイック期以降のギリシャ時代の展示品が少ないのも、ローマによる破壊が影響しているのかもしれません。


ローマ期

ローマ時代のモザイク


ローマによって徹底的に破壊されたコリントスでしたが、カエサルが街を再建します。カエサルが暗殺される少し前のことだったそうです。ローマ帝国の支配下でコリントスは属州アカエア州(南ギリシャ州)の政治の中心となり、再び繁栄を取り戻します。交通の要衝だったことも大きかったのでしょう、コリントスはその豊かさで有名だったそうです。現在、コリントス遺跡で見ることができるものは、グラウケの泉とアポロン神殿以外はローマ帝国の支配下にあった時のものです。

 ディオニュソスのモザイク
 中央のディオニュソス


劇場を飾っていたレリーフ


彫られているのはアマゾネスとの戦い
   


北バシリカを飾っていた捕虜のファサード


古代アナトリア(現トルコ)中央部にあったフリギアを破ったのを記念したもの
ハンサムですが捕虜なんでしょうか。コリントス式の柱頭も綺麗。
   

博物館の後はローマ時代の遺跡見学です。
タクシーの運転手さんと1時間半後の集合を約束したのですが
アポロン神殿と博物館でちょっと時間を使い過ぎました。

まずは博物館の裏手にあるオクタヴィアの神殿を目指すことにしました。

オクタヴィアの神殿



オクタヴィアの神殿は初代皇帝アウグストゥス(オクタヴィアヌス)の姉オクタヴィアに捧げられた神殿。コリントス発祥のアカンサスの葉を模したコリントス様式の柱が優美で、いかにも女性に捧げられた神殿といった印象を受けます。
オクタヴィアはローマ女性の鏡とされた女性。最初の夫を亡くした後、マルクス・アントニウスと再婚し2女をもうけます。しかし、アントニウスはエジプトで出会ったクレオパトラの愛人となり、オクタヴィアを離婚してしまいます。これはオクタヴィアの弟オクタヴィアヌスだけでなくローマ市民の猛烈な怒りを買うこととなり、アクティウムの海戦でオクタヴィアヌス率いる軍に敗れたアントニウスは自殺し、オクタヴィアヌスが初代ローマ皇帝となります。オクタヴィアはアントニウスとクレオパトラの間に生まれた娘らアントニウスの遺児たちも引き取って育て上げました。優しすぎる人ですね。



コリントス式の柱頭はとても優美なんですが、他方で、なんでこんなに柱が短いんだ?という疑問も生じます。遺跡にあった説明図を見ると、神殿上部の破風を支える柱だったようにも思えますが、他方でドーリス式の柱の再現図もあって、結局、よく分かりませんでした。謎です。

オクタヴィアの神殿から真っ直ぐ進むとアゴラに出ます。

アゴラ

アポロン神殿の南に広がるアゴラ。


アーチの屋根が目を引きます。かってアゴラに並んでいた建物の一部でしょう。

アポロン神殿に近いアゴラ北側は何とも絵になります。


遺跡の中でも一段小高いところにあるアポロン神殿
ローマに破壊されずに残って本当に良かった。ローマ時代も信仰されていたんでしょうか。
   


広いアゴラは中央部にもいくつも見どころがあります。

ベーマ(演壇)
 
 ヘローン(英雄廟)

ベーマは政治家などが演説をしたところ。パウロがここで説教をしたことで有名で、後にはベーマの上に教会が築かれました。パウロはコリントスを数回訪れていて、ここでローマの信徒への手紙を書き、またコリントスの住民に向けてのコリントの信徒への手紙を書いたとされています。

アクロコリントスを背にしたアゴラ。ベーマ周辺。


アゴラは実に広い。
アゴラの南側にも南ストア(柱廊)など見どころがあるのですが
残り時間が少なくなってきたのでアゴラの北にあるレカイオン通りを目指すことにします。

アゴラ北側の復元図


復元図右、アーチのある門がレカイオン通りに通じるプロピレア(前門)、その左隣が北バシリカ。
この北バシリカのファサード(正面)が博物館にあった捕虜のファサード。博物館には2体の捕虜の男性柱が展示されていましたが、かっては4本の柱があったようです。

おそらく北バシリカの跡



アゴラから階段を下りていきます。

レカイオン通り

かって港まで通じていたというレカイオン通り


かなり広い道です。道の両側に一段高くなっているのは歩道でしょうか。


ピレーネの泉

アゴラからレカイオン通りに階段を下りていくと、右手に見えるピレーネの泉


ピレーネの泉はゼウスがアイギアを誘拐したことを彼女の父である河神アソポスにシーシュポスが教え、そのお礼にもらったという泉。アクロコリントスとここの2カ所にお礼の泉はありました。
泉の名前の由来となったピレーネは河神アソポスの別の娘でポセイドンに嫁ぎますが、子供が2人とも悲劇の死を遂げたことから泣き続け、その涙で体が溶けて泉になったとされています。
他にもコリントス王子べレロポーンがここで天馬ペガサスを得て愛馬にしたと言われたり、ペガサスが蹄で蹴って泉が沸いたとか色々な神話の残る泉です。

正面から見た泉


昔は中に入れたそうですが、ロープが張られていて外から見るしかありませんでした。残念。
ローマ時代に大富豪イロド・アティコスが改修したそうです。彼はアネテのアクロポリス南麓に音楽堂を建てたり、オリンピアに給水施設を寄進したり、凄いお金持ち。復元図もありました。豪華。




泉の先に綺麗な白い柱が見えます。
ガイドブックによると、エウリレクスの大浴場とかの見どころが先にあるらしいのですが
ロープが張ってあって先に進めません。



奥に行く道を探したんですが見つからないので諦めて通りに戻りました。
広い通りの左右は一段高く綺麗に整備されています。やはり歩道のようです。



かって通りの左右に多くの建物があったことは分かりますが、建物の形を想像するのは難しい。
ところどころに立派な柱?やコリントス式の柱頭が置かれていました。
   

レカイオン通りの先が出口です。
タクシーの運転手さんと合流して、車で入り口付近に戻ってもらいました。

音楽堂(オデオン)



ローマ時代の音楽堂(オデオン)。収容人数3000人。
元の姿を想像するのも難しいですが、かっては屋根もありました。

オデオンの先に劇場がありました。

劇場



オデオン以上に元の姿を想像しがたいですが、ここは博物館に展示されていたアマゾネスの戦いのレリーフ等で飾られた立派な劇場があったところです。元々、前5〜4世紀ころに建てられたギリシャ劇場があり、ローマ時代に拡大されたもの。ギリシャ劇場は斜面を利用して建てられましたが、ここも海を臨む斜面です。コリントス遺跡は海が近いので良い景色だったんでしょうね。


コリントスの街は4世紀・6世紀に地震で大きな被害を受けます。
その後も戦乱等で街は何度も破壊されましたが、その度に街は再建され復活しました。
今もペロポネソス半島第2の街となっています。

正直1時間半では足りませんでした。


お天気に恵まれたこともありますが、何とも明るい遺跡です。
機会があればアクロコリントスにも行ってみたい。

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参考文献

古代ギリシャ・時空を超えた旅(2016年東博展覧会図録)
ギリシャ神話 呉茂一著 新潮社
ギリシャの神話・神々の時代 カール・ケレーニイ著 中央公論社
ギリシャの神話・英雄の時代 カール・ケレーニイ著 中央公論社
図説ギリシャ・エーゲ海文明の歴史を訪ねて 周藤芳幸著 ふくろうの本
図説ギリシャ神話・神々の世界篇 松島達也著 ふくろうの本
図説ギリシャ神話・英雄たちの世界篇 松島達也・岡部紘三著 ふくろうの本
古代ギリシャがんちく図鑑 柴崎みゆき著 バジリコ株式会社