アポロニア遺跡

アルバニアで有数の古代遺跡アポロニア
エグナティア街道の起点の一つであるとともに
学問の都でもありました。
2018年10月訪問

写真はプリタニオン


アポロニア遺跡はデュラスの南、アドリア海に近い場所に位置します。
遺跡は丘の上にあり、バスで駐車場まで登っても、最後は少し坂道を歩かないといけません。
坂道を上って入口が見えて来ました。



煉瓦造りの建物は11世紀創建の聖マリア修道院。博物館になってます。
入口を入るとアポロニア遺跡の全体地図がありました。

アポロニア遺跡は、アドリア海から約14q離れた場所にあります。右の地図でも分かるように、街は川の近くの丘の上に築かれました。この川はアドリア海に注ぐアウス川。アポロニアの街はアウス川右岸の港町として発展します。古代は海から船で遡ることができる川沿いに港を造ることが多かったようです。

元々、この地では地元のイリリア人が農業や牧畜を営んでいました。そこにギリシャ人が交易で訪れるようになり、その後、前6世紀に街を建設したのだそうです。街を築いたのはギリシャのコリントからの植民者で、当初は建設者の名前にちなみギュラケイアと呼ばれていました。後にアポロン神を讃えるアポロニアに改名。地中海には多くのアポロニアという名の都市がありましたが、ここが最大の街だったそうです。

街は前3世紀にローマの支配下に入りますが、その後は北のドゥラキウム(現デュラス)とともにアドリア海とエーゲ海、更にはビザンティウムまでを繋ぐエグナティア街道のアドリア海側の入口として繁栄します。
前2世紀にはアカデミアも造られ、学問の街としても有名になります。初代皇帝となったオクタヴィアヌスも、この街で学んでいました。オクタヴィアヌスがカエサルの暗殺を知ったのも、この街だったそうです。

広大な遺跡ですが発掘されたのは僅か10%程度。見学できるのはごく一部です。
見学できたところを地図で囲んでみました。この部分は修復も進み、見どころが詰まっています。

緑の中を進むと、いきなり白く立派な建物が見えて来ました。


建物に近づくと、他にも次々と建物が現れます。



上の写真、まず最初に目に入った白く美しい柱が印象的な建物は左の地図のAプリタニオン(評議会の開かれた場所)。

プリタニオンの左隣は事務所と広場になっており、更にその左にはGイオニア人の神殿がありました。

また上の写真でもプリタニオンの右手に建物の基礎のようなものが写っていますが、ここには長い建物があり、@店舗でした。

そして、プリタニオンに向かい合うようにして建つ小さな劇場のような建物がEオデオン。オデオンは音楽堂でもあり、議事堂としても利用された建物です。

オデオンの右にあるのはC図書館。図書館とオデオンの間には列柱廊がありました。

そして、オデオンの左にはF神像を飾る窪みがあり、聖域となっています。

更に上の写真だと分かりにくいかもしれませんが、プリタニオンとオデオンの間には、B凱旋門の基礎が残っています。


プリタニオン(アゴノテテスの記念館)

オデオンに面する側が本来の入口
コリント人が築いた街だからかコリント式の柱。美しい。
   

評議会が開かれたというプリタニオンは、中に入ると半円状の窪みが残ってます。
何だろう、変わってるな・・と思ったんですが、遺跡に説明図がありました。

どうやら建物の中が半円状のオデオンのような構造になっていたようです。

現地ガイドさんは、この建物を昔の「国会議事堂」って言っていました。そういえば日本の国会議事堂も扇形の座席となってるし、オデオンも議事堂として利用されたというから、この形が議論に適しているのかも。オデオンと向かい合って、このような建物が建っているのも面白い。

このプリタニオンはアゴノテテスの記念館とも呼ばれます。兵士であった兄弟を追悼する目的で建てられたとのことでした。

破風付近には美しい装飾が残っています。



建物内部が半円状の構造なのが分かるかと思います。



プリタニオンに隣接する部分も撮ってみました。


プリタニオンには隣接して事務所とイオニア人の神殿があったということです。

正直、今の状態からは、どこがイオニア人の神殿なのか良く分からない・・・。

ただ、遺跡にあった説明図を見ると、上の写真でプリタニオンに隣接した右側は神殿ではなく事務所なんでしょうね。建物があって、その隣が広場のようになっています。

イオニア人の神殿はどこらへんなのだろう。

プリタニオンから撮った写真。柱の先にある建物の基礎のようなところが神殿?



オデオンと図書館

図書館から見たオデオン



オデオンの手前にある図書館は基礎しか残っておらず、正直、かっての姿を想像するのは難しい。評議会のそばにあるので公文書館なのかとも思いましたが、現地ガイドさんは本を読むだけでなく、買うこともできたんだよ、って言ってました。どんな本が置かれていたんでしょうか。

オデオンは音楽堂でもあり議事堂でもあった建物。丘の斜面を利用して造られたようです。アポロニアでは自然の地形を利用した街造りがなされていました。

古代の人々は、ここで音楽を楽しんだり、議論を戦わせたりしました。

現地ガイドさんによるとオデオンの収容人数は500人とのこと。オデオンは小劇場とも呼ばれますが、アポロニア遺跡にはオデオンとは別に大きな劇場も見つかっています。残念ながら見学はできませんでしたが、劇場も丘の斜面を利用して建てられました。

またオデオンと図書館の間には列柱廊があります。今は何本かの柱が残るだけですが、かっては7つのアーチがあったということでした。

 列柱廊
 図書館

オデオンとプリタニオンの間に凱旋門があります。

凱旋門



凱旋門といっても基礎が残るだけ。焼煉瓦で造られた基礎は十字型をしています。3世紀のカラカラ帝の凱旋門との説が有力なのだそうですが、オクタヴィアヌスの凱旋門との説もあるとか。この街で学んだオクタヴィアヌスは初代皇帝になると税を免除し、アポロニアを自由都市としました。

十字型の基礎
 
 復元図

これで遺跡の中心(左下の地図)部分をF聖域以外見学したことになるのですが
左下の地図は右下の写真で黄色で囲んだ部分。周辺も見て廻りました。
   

まずは図書館の横を通って丘に上ると市壁とアポロンのオベリスク


丘に面した壁は地滑りを防止するためのもの。壁が厚くなっているそうです。

謎のアーチ
MUR TARRACIMIとの説明
 
 アポロンのオベリスク
元々はどんな形だったんでしょう

アポロンのオベリスクと言いながら、一見、柱のようにしか見えないのが残念。
アポロニアというくらいだからアポロンの神殿とかもあったと思うんですけど、どこにあったんでしょうね。

先には市壁が続きます。


実はアポロンのオベリスクから更に上に上るとレストランがあります。
そのレストランでお昼を食べたんですが、まずは遺跡の観光を続けます。

図書館裏の丘から見たオデオン


丘から見下ろしたプリタニオンと凱旋門


一旦、プリタニオンに戻って、先に進みました。
オデオンの左隣にアーチ状の2つの窪み


この窪みは神像などを置いた聖域

その先にも半円状の窪みが延々続く場所があります。


ここは柱廊。遺跡には聖域と柱廊の説明図もありました。

聖域・多くの像を置いていたんですね
 
 柱廊の説明図

柱廊が終わると、不思議な建造物がありました。

ニンファエウム?



現地ガイドさんの説明からは市民に水を提供し、憩いの場だったニンファエウムではないかと思うのですが、ちょっと説明が曖昧だったので自信がありません。

第二次世界大戦中の対空砲火の跡があるとか言ってた時に、これ何って質問したので・・・。
でも、これ対空砲火の跡じゃないですよね?

おまけに、ここの説明図は風雨にさらされて全く読めませんでした。この遺跡、英語表記ではないものの復元想像図が付いた説明板が各所に置かれていて分かりやすいんですが何故かここのだけは真っ白になってました。

wikipediaによるとアポロニアには地中からの湧水や4つの水道からの水を集めるフォンタナ(複雑な構造物)があるとのことなので、これがフォンタナかとも思います。

左側にある赤い屋根で保護されているところも何か曰くありげだったし・・・。現地ガイドさんは貯水池みたいなことを言っていました。

アーチが印象的な建物なので気になります。複雑な構造(フォンタナ)のニンファエウムということなのかな・・・。


この場所は四辻になってたみたいで左右に道が続きます。
オデオンから歩いて来ると左手に下水道の跡があるので、ます、それに沿って歩いてみました。

下水道の跡
 
 住宅の跡

この住宅の3つの部屋からモザイクが発見されているのだそうです。
住宅のあたりから、はるかに海が見えました。


現地ガイドさんによるとローマはアドリア海を越えて220隻の船で攻めて来て
街を支配下に置くとともに、街の金銀財宝を奪ったのだとか。

ニンファエウム?に戻ります。


ニンファエウム?から民家とは反対方向に坂を上ると建物の跡
ここにも神殿があったみたいです。


坂を上ると広々とした場所に出ました。
ここはアゴラの跡。発掘後、埋め戻されたんだそうです。


これにて遺跡の見学終了。入口の教会と修道院に戻ります。

聖マリア教会と聖マリア修道院



アウス川の港町として繁栄したアポロニアですが3世紀の地震で川の流れが変わって港に泥が堆積するようになり、次第に街は衰退。
6世紀には街は荒廃し、その後は修道院が建てられたりしたものの、街は忘れられていきます。

遺跡入口にあった煉瓦造りの建物は11世紀に建てられた聖マリア修道院。中に入ると修道院の中庭にあたる場所に14世紀に建てられた聖マリア教会が建っています。

アルバニアはローマ帝国の後、ビザンティン帝国・ブルガリア王国・セルビア王国と次々と支配者が代わり、15世紀にはオスマントルコの支配下に入ります。第一次世界大戦後にようやく独立を果たしますが、政情不安が続き、王政になったり、イタリアに併合されたり・・・といった不幸な時代が続きました。

第2次世界大戦後、ソ連によって解放され独立しますが、独裁共産政権の下、信仰は禁止され、聖職者は刑務所送り、教会やモスクは閉じられてしまいます。この教会は歴史的・美術的価値から破壊を免れたそうです。十字架の左右のドラゴンが珍しい。
宗教の自由が認められたのは1990年に民主化されてから。まだ30年経ってません。

色々な辛い時代を見てきた教会なんでしょうけれど、なんとも素朴。
聖マリア教会の柱頭は可愛すぎると思いました。
   

中央に聖マリア教会があって、その周囲を修道院や回廊が取り囲む構造。
下の写真、左が聖マリア教会、中央が鐘楼、右が聖マリア修道院


鐘楼
 
歴史を感じる 修道院の壁

修道院は博物館になっているのですが、回廊にも彫刻が置かれていました。


ローマ時代の美しい彫刻。右下はアポロンだそうです。
   

街の有力者のお墓を守っていたライオン


元修道院だった博物館。2階が展示室。


ギリシャ時代の壺
   

ローマ時代のレリーフや彫刻
 アルテミス
 エロス


遺跡を離れた時、車窓から丘の斜面に遺跡らしきものが見えました。
劇場でしょうか。近くで見たかった。



近くには独裁共産政権下に造られたトーチカも残っています。


鎖国時代にアルバニア全土には80万ものトーチカが造られましたが、
結局一度も使われることはありませんでした。

ようやく平和で明るい時代になったアルバニア
遺跡の発掘も進むと良いですね。


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wikipediaの記事意外に資料が見つけられませんでした。
現地ガイドさんの説明を元にまとめています。